物語消費論の前提にあるのは「ポストモダン」


◆「ポストモダン」とは何か


現代という時代を、近代が終わった「後」の時代として特徴づけようとする言葉。
各人がそれぞれの趣味を生き、人々に共通する大きな価値観が消失してしまった現代的状況を指す。
現代フランスの哲学者リオタールが著書のなかで用いて、広く知られるようになった。 リオタールによれば、近代においては「人間性と社会とは、理性と学問によって、真理と正義へ向かって進歩していく」 「自由がますます広がり、人々は解放されていく」といった「歴史の大きな物語」が信じられていたが、 情報が世界規模で流通し人々の価値観も多様化した現在、そのような一方向への歴史の進歩を信ずる者はいなくなった、とされる(『ポスト・モダンの条件』1979年)。
(西研 哲学者 / 2007年)


1970年大阪万博のパビリオン群 科学万能主義の時代の最後を飾ったイベントのひとつ

ポストモダンは「シミュラークル」を呼ぶ


シミュラークル(模像)とは、ジャン・ボーリヤールが提唱した概念。

いまさら人に聞けないシミュラークル

ディズニーランドの城は、中世のお城を模しただけの張りぼてであり「偽物」でありながら、人々に親しまれているうちに「ディズニーランドのお城という本物」になってゆく。 そして、「ディズニーランドのような街」が現実の街を改造されて作られる。 このように、「架空から作られた偽物」が「現実のモデル」になり、また逆に現実にあるものが「偽物」が作られることで模像化してゆく。 こうして全てのものが、現実と虚構、本物と偽物の中間的なものに変わってゆく、というイメージを、ボードリヤールは「シミュラークル」という言葉で表現した。 これこそが、社会全体の大きな物語(=本物)を失ったポストモダンの特徴である、とボードリヤールは言う。

 シンデレラ城のモデル ノイシュヴァンシュタイン城

 シンデレラ城

 シンデレラ城の模倣(中国)


「小説家になろう」において、複数のソースから自然発生的に作り上げられた「中世風ファンタジー世界」や「冒険者ギルド」や「異世界転生の流れ」などが、いつのまにか 古くからある「お約束」として扱われるようになっているのも、このシミュラークルというモデルに非常に近い。

ポストモダンでは全てが記号化=データ化する


シンデレラ城が、「シンデレラ城(夢のお城)」という記号になっていったように、ポストモダンにおいては全ての物事が記号として扱われデータになる。
記号になるとは、つねに相対的に見られ他のものと並列化されるということである。
それは、「絶対に記号にならないもの」(神聖なもの、測れないもの)が、私たちの世界から消えてしまったからである。
軸になる価値がないから、全ては横並びになる。

「物語消費論」の語り方でいうなら、私たちは既成の大きな物語を信じることができなくなったが、それでも物語を消費しなくては生きていけない生きものであり、 だからこそ、虚構の中に作られた「大きな物語(世界観)」と、そこから生まれる小さな物語を消費するのだ、ということになる。

たとえば道具のブランドを例に考えてみよう。
明治大正の時代、道具の良し悪しを決めていたのは、「昔からよいとされる生産地で作られた」ことであり「昔からよいとされる職人の作」であることであり、「定評のある店で買った」ことであった。
現代においてもそういったクラシックな「逸品」の価値は残っているが、ではそれは万人が欲しがるものなのかといえばそうではない。
何十万もする万年筆より109で買った300円のペンのほうが価値がある、ということも普通にありうるのが現代。
そこで重要になるのが、付加価値、すなわち道具にどういう物語が付与されているかということ。
300円のペンであろうと、誰か有名人が使っていた、ネットで評判になった、限定で手に入りにくい、などという物語が付加されることで入手困難な道具になる。
この時私たちは、ペンを通して物語を消費しているといえる。


「物語消費」から「データベース消費」へ


「データベース消費」とは


社会学者・哲学者の東浩紀が、「動物化するポストモダン」(2001)で提唱した、物語消費論を発展させた考え方。

データベース消費-wiki

「物語消費」と「データベース消費」はどこが違うのか


大塚の「物語消費」は、商品として私たちの前に現れる「小さな物語」の後ろに、一貫した体系とストーリーを持つ「大きな物語」を想定していた。また、その「大きな物語」は製作者が構想し組み立てたもので、そこ緻密な計算があることが前提になっていた。

東の「データベース消費」は、21世紀においては「小さな物語」の後ろにあるのは、製作者が仕組んだ「大きな物語」ではなく、雑然とした情報が集まった「データベース」になると分析。
そこには緻密な計算などなく、ごちゃごちゃに集積された情報群を、ユーザーが勝手に読みとる形になる、と予言してみせた。

なろう系と「データベース消費」


物語消費においては、「大きな物語」はあらかじめ制作者によって確定しており、それを小出しにしているというイメージが強い。一方、データベース消費においては、 しばしば「大きな物語」は、小さな物語が語られはじめた後も「完成していない」。それは物語を造る主体が、特定の作者ではなくデータベース側にあるからである。

「なろう系小説」の世界で私たちが「お約束」「定番設定」と呼んできたものは、東がいう「見えないデータベース」の一部だと考えることができる。
実際、なろう系の定番設定の多くが単独のはっきりしたルーツを持たず、なんとなく作り上げられてきたものである。そこに「物語消費論」でいうところの「大きな物語の作者」はいない。

なろう系の作者たちは、「なろう系データベース」とも呼べるような見えない不定形なデータベースにアクセスし、設定を取捨選択することで作品を作っている。 また読者も、同じデータベースに脳内でアクセスしながらその作品を読んでいる。
そしてそのデータベースは、読者の嗜好の変化にともなって、日々更新され書き換えられていると考えられる。

このように考えると、「小説家になろう」で行われていることは、東が予言して見せたデータベース消費の最新形であるといえる。

「ガンダム」と「エヴァンゲリオン」


大塚英志の時代に流行した「機動戦士ガンダム」シリーズ(1979~)は、冨野 由悠季が構想した宇宙史、という「大きな物語」に沿った作品群であり、そこには各作品を貫く歴史や設定がはっきりとあり、基本的には矛盾なく作られている。視聴者は、ある程度情報を獲得すれば、誰でもガンダム世界について同じ認識に至ることができる。簡単にいうと、ガンダムの世界には「正史」があり「はっきりした世界観」がある。

ガンダム年表

たいして、「新世紀エヴァンゲリオン」(1995~)は、「正史」を持たない。元祖であるテレビ版においても「これだ」という確たる真相は語られないし、そののち何度も作られた映画版は、それぞれパラレルワールドだったり解釈が違ったりして、エヴァンゲリオンの世界において何が本当に起きたことなのかは曖昧にされている。

東はエヴァンゲリオンを、隠された大きな物語すら実は存在せず、一貫しないデータの集積があるばかりだという、現代のありかたを象徴する作品として取り上げた。

「萌え記号」とキャラクター


「デ・ジ・キャラット」(1998)というプロジェクトがあり、それはブロッコリーというキャラクターグッズショップが、自社広報用のキャラクターを作る、という企画からスタートした。が、出来上がったキャラクターたちに人気が出ると、そこに物語があとから付加され、やがてアニメ化され独自の物語世界を作るようになってゆく。
東は、このような展開が、「データベース消費」の典型的な例だと指摘した。そこにはまず「萌え記号」(猫耳、メイド服、リボン、など)というデータがあり、そこから全てが始まり、「大きな物語」は、そのデータを補完するための道具にすぎない、とする。



もうひとつの例として、「初音ミク」が挙げられる。
初音ミクとはそもそも、「ボーカロイド」と言われる人工音声ソフトウェアに搭載されたボイスにすぎなかった。 しかし制作会社がこれに「初音ミク」という名前をつけ、画像を加えたことで、一気に「萌えキャラ化」した。


初音ミクという架空の少女はユーザーによって多種多様な「物語」を語られてゆくと同時に、「アイドル」として「アイコン(聖像)化」し、初音ミクコンサートは海外にまで進出するようになった。

「見えないデータベース」をネタにした映像作品


岡崎体育「Music Video」

「データベース消費」は現代の発明ではない


「データベース消費」は、昔からある


考えてみれば、私たちの祖先は、平安時代にすでに、和歌に関する「見えないデータベース」を作り上げていたのではないか。
そこでは「風月花鳥」にそれぞれ蓄積された定番イメージがぎっしりと設定され、強靭なお約束ができあがっていた。(季語、忌み言葉)
平安の歌人たちが素早く優れた歌を詠むことができたのは、その「和歌データベース」にアクセスしていたからで
その状況は、いまの「なろう系」とほとんど同じなのではないか。

「データベース消費」は私たちの文化の本質ではないのか


私たち人間は昔から、見えない文化的データベースを作りそれを繰り返し消費することをしてきたのではないか。
ギリシャ悲劇も平安和歌も能もオペラも映画もテレビドラマも、そういった見えないデータベースがあってこそ成立してきたのではないか。

だからこそ、データベースを完全に無視して強引な苦行によって作られたごく少数の作品を「異端」「アウトサイダーアート」と呼び珍重してきたのではないか。

ヘンリー・ダーガー 「非現実の王国で」


「ポストモダン」の時代の特異性は、そういったデータベースの構築が「権威」や「伝統」に向かわず、つねに相対的に評価され価値が変動していることにある。

たとえば近代以前においては、「教養」といわれるものが重視された。その教養は、日本においてはまず漢文知識であり、ついで和文の知識であり海外の知識であると、大まかな重要度が決まっていた。
教養を深めるため読むべき本というものはだいたい定められていて、それを一手に集めたのが「岩波文庫」であった。
つまり、「教養」という名のデータベースがもうできていて、かなりの部分固定されていた。

しかし現代において、古典的な「教養」があろうと、それが現代の多様なトピックを理解するのに汎用的に役立つことはほとんどない。
四書五経を読んでいるからといって、小説家になろうへの理解で有利になる可能性は小さい。
必要とされるのは、それぞれのジャンルにたいする「ジャンル的教養」であり、そのジャンルごとの教養はひとつひとつ奥深く、かつ感覚的なものを多分に含んでいる。
現代の主なジャンルすべてに精通することは誰にもできず、万能の鍵のようなものもない。
Walking Dictionary(歩く辞書、物知りをよくこう呼んでいた)であることは現代においては非常に難しく、そうであることにこだわってもあまり意味はない。


「見えないデータベース」とうまくつきあおう


まずは読むこと、見ることから始めよ


ごく一部の天才が、最初からデータベースとは無関係に傑作を作ることはまれにあるが、そうめったにあることでもない。
基本的にクリエイターは、誰か、何かのファンになることから創作活動を始める。
それはつまり、ここで述べてきた「見えないデータベース」に触れる、ということである。

ある作品のファンになるということは、その作品を含むあるジャンルのデータベースと縁をつなぐ(ジャンル的教養をたくわえる)ということで、そこから全てがスタートする。
あるジャンルのデータベースに触れるということは、そのデータベースを作っている時代そのものに触れるということでもある。
どんなジャンルのどんな作品であれ、好きになった作品は時代性への貴重なアクセス通路である。

データベース消費をおそれるな


自分が無意識にアクセスしているデータベースから、何かを引き出してきて使う、ということを「創造性がない」と誤解しないこと。
データベース利用はどんなクリエイターもやっていることで、ただ、少しだけ工夫してバレにくいようにしているだけ。
データベースをうまく使おう、と考えることが大事。

私たちはデータベース消費の時代を生きていて、そこから逃れることはできないのだから、データベースを利用することを怖れてはやっていけない。

取捨選択が全て


「見えないデータベース」には、理由もなく使われ続けている、陳腐なお約束や設定もたくさん含まれている。
だから最終的には、自分でそういった無価値と思う部分を切り捨てて、よい部分だけを使って作品を作る。
そこに作者のオリジナリティが現れる。オリジナリティとは「取捨選択のセンス」である。

「これはベタすぎるな」「ここはベタでもいいじゃん」「ここは一工夫ほしい」といった、直感的で曖昧な感覚を大切にすること。
それがコンテンツを作る者の個性となる。

作者が物凄く有能に見えるときは、たいていデータベースの使い方が上手い


作品を量産できる作者は、だいたいの場合は、見えないデータベースの「イタコ」と化している。
自分の頭で考えているのではなく本能で動いている。
それでユーザーを惹きつけられるだけの準備をしているからイタコ化してもやっていける。

物凄く頭がよくて異次元の創造性を持っているわけではない。そんな人間は百年に一人ぐらいしかいない。

「ちょっとした味付け」が作品の運命を決める


「見えないデータベース」の土台のうえで創作をする現代の私たちにとって、大切なのは「細部」のクオリティ。 通貨の単位とか食べ物の描写とかキャラクターの匂いとかちょっとした癖とか、あるいは文章のリズムの出し方とか、そういう「細部」のリアリティが作品の面白さを作る。
どんな素材をどれだけ使って料理しても、結局ひとつまみの調味料の使い方で料理の味が変わってしまうのに似ている。

全てが記号化されていくことを受け入れろ


しばらく創作活動をしていると、どんなに思いをこめたテキストや映像も、全て等価値でわずかな価値しかない、という思いに囚われがちになる。
何をやってもただのイメージでしかなくたいした意味などない、という考えは全てのクリエイターに訪れるもの。
そこでバカバカしくなってやめてしまう人が相当数いる。
そういうとき、最初に読者・視聴者として受け取ったものを思い出せる人、つまり初心に帰れる人が結局は優れたクリエイターになる。






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