キャラクターとは


ここでいうキャラクターとは、フィクションに登場する人物、あるいはその人物の持つ性質や特徴のこと。
物語の枠組みには強力かつ普遍的なパターンがあるのに、人はなぜ新しい物語を消費することをやめないかという理由のひとつが、「キャラクター」。
キャラクターを好きになる、という感情が、新しい物語を求めてゆく欲望の大きな要素のひとつ。

ここでは2つの論点からキャラクターを考察してみる。

キャラクター論1 キャライメージ/キャラクター区別論


漫画評論というジャンルから現れた考え方として、「キャラ(ここではわかりやすくするためキャライメージと言い換える)」と「キャラクター」を分けて考える、という考え方がある。
2008年に発表された伊藤剛の評論「テヅカ・イズ・デッド」で提唱された。

キャライメージ/キャラクター区別論における「キャライメージ」とは


<(1)多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ (2)固有名詞で名指しされることによって(あるいは、それを期待されることによって) (3)「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの>(テヅカ・イズ・デッド 126P)

いわば「キャラクター」のプロトタイプ、そのキャラクターにまつわる物語が搭載される前の「素材」をいう。
伊藤は「画像」を前提に語っているが、必ずしも画像がある必要はない。

いわゆる「キャラの属性」も、この「キャライメージ」の一部分だと考えることができる。ツインテール属性、ネコミミ属性、などどいった外見だけでなく、ツンデレ属性、姫属性、チャラ男属性、といった、画像に乗らない「性格的萌え要素」などもこの「キャラ」の分類の中に入ると思われる。そこにはまだ、そのキャラクターならではの「物語」が乗っていないからである。
そこではまた画像は「絵」もしくは「記号」にすぎず、属性について書かれたテキストは「要素のリスト」にすぎない。
本講義でいう「見えないデータベース」の影響を色濃く受ける部分でもある。

本講義の文脈でいえば、「キャライメージ」とは、物語の構成元素である「イメージ」が、人や生き物の姿形をとって集まったものである。 そこではまだ、キャラクターは物語に登場できるようになっていない。
この状態でも「キャラ」が強い魅力を持つことはしばしばある。実際、物語内の設定とはあまり関係なく人気になっているキャラというものも存在するし、企業マスコットのようにキャライメージのみで活躍している例もある。

夏目友人帳 ニャンコ先生

キャライメージ/キャラクター区別論における「キャラクター」とは


<「キャラ(イメージ)」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ、テキストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの>(テヅカ・イズ・デッド 126P)

「キャライメージ」に設定(物語のなかキャラが機能するための味つけ)が乗り、自ら物語を作り出すか、物語の中で動き始めたものをキャラクターと呼ぶ。
<人格を持った身体>、つまり、替えのきかない身体と、その中にある人格を持っている(=死ぬことがある、死ぬことができる)ということが最重要。受け手に「身体」を感じさせることで、はじめてそのキャラクターは「キャラ」という記号から、キャラクターになる。
すなわち、そのキャラクターの「物語」が生まれ「運命」が生まれるのである。

「キャライメージ」は、物語のなかで機能することで「キャラクター」となる


物語の中にキャラを配置し、物語の一部を担わせるためには、「キャライメージ」をそのまま持ち込むだけでは駄目である。なぜなら、どこの誰かもわからないからだ。
「キャラクター設定」、すなわちどこの誰で何を考えているか、といった設定の情報が必要になる。
「キャライメージ」というイメージ群に、キャラ設定という物語のための情報を付加することで、「キャライメージ」は「キャラクター」となる。
物語の一部として使えるようになり、物語の中で生きはじめる。

キャラクター = キャライメージ + キャラ設定

ごく簡単に整理するとこうなる。物語のキャラクターは、キャライメージとキャラ設定という2層構造を持っているわけである。
この2つの要素がどれだけ充実しているかで、そのキャラクターの重要度や色付けが決まる。たとえばキャラ設定が「町の門番」だけで済むキャラクターはあきらかに脇役であり、キャライメージも簡素であることが前提となる。ただの門番でありながらキャライメージが充実していてもそれは浮くだけになる。
主人公であるならばキャライメージもプロフィールも情報量が多いことが前提となるが、逆手にとってキャライメージを軽くすることで「平凡な容姿の非凡な主人公」を作ったりする。

銀河英雄伝説 ヤン・ウェンリー

「キャライメージ/キャラクター論」は、グラフィックイメージや「見えないデータベース」が最初にある現代の漫画/アニメ/映像の状況に適合したキャラクター理論といえる。
「まずイメージのかたまりがあり、そのデータベースがあり、それが加工されて物語内キャラクターになる」という筋道をわかりやすく説明してみせた。

「キャライメージ」と「キャラクター」の間にはミスマッチや緊張がある


まず「キャライメージ」があり、それに物語をうまく乗せると「キャラクター」になる、という形で、キャライメージとキャラクターが渾然一体になる幸せなケースばかりではない。 「キャライメージ」と「キャラクター」にはある種のミスマッチ、緊張や乖離が生まれることがあり、むしろそれが戦後まんがの特質だった、ということを伊藤は述べている。

◆手塚治虫「地底国の怪人

手塚治虫が「実質的に最初に描いたストーリーまんがはこれ」と認める初期作品。マンガ史的にも「新宝島」と並ぶ価値を持つ。

地底国の怪人wiki

あらすじ

飛行機事故で父親を亡くしたジョン少年は、安全な乗り物を新たに造ろうと誓い、地球を貫通したトンネルの中を走る「ロケット列車」を設計。彼の助手となったウサギの耳男とともにロケット列車に乗り、トンネルを掘っていくが、地底で遭難してしまう。列車工場のビル工場長はジョンの救助に向かうが、途中で「地底人」の襲撃を受け捕虜となった。地上人を憎む地底国の女王は、救助隊のひとりハム・エッグ技師長を宝石で買収し、地上攻撃のための手下とする。一方ジョンと耳男は独自に地底国へたどり着き、ビルたちを救出して地上へ逃げ帰った。
地上へ帰還したジョンたちを、ハム・エッグ率いるテロ組織が襲う。戦いの中、耳男の判断ミスでロケット列車の設計図は奪われ、ジョンは腹を立てて耳男を追い出す。これを機に地底国との全面対決を決めたジョンは、大学から派遣されたという少女技師ミミーや警察と協力してハム一味に逆襲し、彼が女王と密談する秘密基地を攻めた。女王はハムを見捨てて逃走するが、謎の少年に阻まれ死亡する。設計図を取り戻し、ロケット列車2号を完成させたジョンは、ビルやミミーと再度の地底探検に挑むが、溶岩流に巻き込まれてしまう。ジョンたちが倒れた中でミミーはひとり列車を運転し、トンネルを貫通させるが、高熱で大やけどを負ってしまった。病院にミミーを見舞ったジョンは、ミミー、そして女王を倒した謎の少年が耳男の変装だったことを知る。ジョンの謝罪と感謝の言葉を聞きながら、耳男は息を引き取る。





耳男は「キャライメージ」としては改造されたウサギであり、典型的な「かわいい動物」の姿でありながら、それにそぐわない「人間であると思っている」という物語を背負わされる。そしてその乖離に真っ正面から衝突して死んでしまう。
そのマンガ的造形とシリアスな物語のギャップが、戦後まんがのスタート地点になった。
戦後まんがは出発時から、「キャライメージ」と「キャラクター」の間の乖離、というものを抱えていた。萌える記号としてのマンガキャラと、物語の役者としてのキャラクターが別々の役割を持ち、読者に二つの異なる要素を同時に受容させる、ということが普通に起きていた。「記号に何かを背負わせキャラクターにしてこそ」という思想と、「記号には記号自体で価値がある」という思想が、作家たちの中でもぶつかりあってきたのが戦後まんがの歴史といえる。

現代の漫画やアニメは、この「キャライメージ(キャラ)」と「キャラ設定(キャラクター)」の間の差や違和感、つまり「ギャップ」を利用してキャラクター造形をしていることが多い。
魔法少女系のキュートな絵柄と残酷の物語のギャップを作ってみせた「魔法少女まどか☆マギカ」などがその典型といえる。

物語のキャラクターは「物語」の機能の中だからこそ輝く


キャライメージ/キャラクター論は2つのことを示唆している。
ひとつは、キャラクターには物語の中で機能するという役割だけがあるのではなく、キャラクター自体が「イメージのパワー/物語性」を持っているということである。
そして、逆の見方もできる。
つまり、キャライメージがどんなに魅力的だろうと、キャラクターはキャラ設定によって物語の中で組み込まれることではじめて「キャラクター」になるのだ、ということ。
彼らは物語の中で魅力的に見えるとしたらそれは物語の中にいるからである、ということである。

現実の人間より架空のキャラクターのほうがおうおうにして魅力的なのは、フィクション=物語と深く結びついて存在しているからである。
たとえ精密な実写映像の中だろうと、キャラクターと現実の人間を比較するのは本質的にナンセンス。
物語のキャラクターは「物語の中の人生」を生きているのであって、現実の人間とは根本的に異次元の存在であり、だからこそ現実の人間を超えて魅力的になることがありうる。

「僕の心のヤバいやつ」(僕ヤバ)で見るキャライメージ/キャラ設定論的キャラクター


「僕の心のヤバいやつ」は、桜井のりお作のラブコメ漫画。2023年春にアニメ化されたばかり。
猟奇殺人の本を読むのが趣味の中学3年生、「(自称)ヤバいやつ」の市川京太郎と、同級生の山田杏奈の恋を描いている。



ヒロイン山田杏奈(もっぱら山田と呼ばれる)の造形は、ここまで述べてきたキャライメージ/キャラ設定論から見て大変おもしろい。



◎高身長と成熟した外見を持つ、とても中3には見えない美少女。
◎にもかかわらずひたすら食い意地が張り、わりとだらしなくて大雑把で不器用。
◎直感で動き、感情を露わにする子供っぽい性格。

大人にしか見えない美しい女性でありながら、中身は中3としてもギリギリどうかという精神年齢。
この子供っぽさと成熟した外見とのギャップに市川はひたすら振り回される。

もし山田が一般的な範疇の外見を持つ少女であったら、おそらくこの漫画の魅力は半分以上失われる。
かといって、この漫画が「けっきょく外見がいいって最強じゃん」な話かというと、実際に読んだり見たりするとそうではない。
山田の中で、「大人な外見」と「年相応の精神」がナチュラルに同居し融合している様子が魅力的なのである。

もうひとつ、この作品で重要なのは「恵まれた陽キャを憎む」という市川の厨二病的な感覚が、山田によって自然に突き崩されていくところである。
山田は陽キャでありながら、陽キャというような分類にとてもはまりきらないワンアンドオンリーな存在として市川に意識されていく。
この作品中の山田は魅力的だが、それは「市川から見た山田」が魅力的だということなのである。
自分のカウンターパート、対となる存在としてのヒロインが主人公を変えていく。これぞラブコメの王道であり奥義であるといえる。

キャラクター論2 F-R論(フラット/ラウンドキャラクター論)


フラット/ラウンドキャラクター論は、もっとも有名なキャラクター分類法で、イギリスの作家E.M.フォースターが「小説の諸相」(1927)という本で提唱した。 キャラクターを、フラットキャラクターとラウンドキャラクターに分ける、シンプルで説明しやすい分類法。

フラットキャラクター(F.C.)とは


・日本語に訳すと「平面的な人物」。

・性格が一貫していて、物語の中で性格が変わったりすることがないキャラクター。

・わかりやすいシンプルな特徴を持ち、その特徴が大げさに誇張されることもある。

・その特質を短い言葉で言い表すことができる。「乱暴者」「親切な人」「がめついおばさん」「日和見」など。

・物語の脇役、ちょい役はだいたいにおいてフラットキャラクター。

ラウンドキャラクター(R.C.)とは


・複雑な性格を持ち、しばしば自分の中に矛盾を抱えている。そのため、物語中で変化し成長してゆく。

・物語の主役、準主役はだいたいにおいてラウンドキャラクター。

フラット/ラウンドの分類法を考え直してみる


かつては、「物語で重要なのはラウンドキャラクター、フラットキャラクターはラウンドキャラクターを生かすための道具。いかにうまく使ってラウンドキャラクターを立たせるかが大事」というような考え方だった。そのためにラウンドキャラクターとフラットキャラクターの数のバランスを考えなさい、というのが小説講座の先生が教えていたこと。
が、現代においてはそう単純な話じゃないよ、ということを説明してゆく。

フラットキャラクター ←→ ラウンドキャラクターは二分法ではなくリニアな指標


キャラクターはフラットとラウンドにきっちり分かれるわけではなく、「フラットに近いラウンド」や「ラウンドっぽいフラット」などが存在する。つまり、ある種のパラメータと見るべき。ここでは仮に「キャラクターのF-R値」と呼ぶ。

F-R値によるキャラクターの変化

<F-R値低い>

・わかりやすい
・記号的な要素が多い(テンプレ通り)
・情報量少ない
・モブキャラとして扱われることが多い
・戯画化されることが多い
・性格はいつも同じ
・RPG的物語でいうと宿屋のおばさんや絡んでくるゴロツキ

<F-R値高い>

・つきあってみないとわからない部分が大きい
・記号的でない(テンプレから外れた部分が多い)
・情報量多い
・物語の重要キャラクターとして扱われることが多い
・戯画化されるには重すぎる悩みを抱えていることが多い
・心変わりし、成長する
・RPG的物語でいうと旅の仲間やライバル、そして主人公

物語はジャンルや作風によってF-R値の基準が違う


仮に、登場人物に全てF-R値が与えられているとすると、ある物語について、その物語の中の総登場人物のF-R値の平均を取ることができる。
この平均値は、フラットキャラクターが多いほど低くなる。
あるジャンルの物語のF-R設定と、別のジャンルの物語の平均F-R値は、かなり違うのではないかと思われる。

ここから、ひとつひとつのコンテンツとジャンルについて、その作品が想定しているキャラクターの標準F-R値があると考えることができる。
本講義では、これを「F-R設定」と仮に呼ぶ。

<F-R設定低い>

四コマまんが
ギャグマンガ
コメディ系アニメ
ライトノベル
RPG系ゲーム
ストーリー漫画
ミステリー小説
コメディ映画
文学系小説
シリアスな実写映画

<F-R設定高い>


情報量を少なくしたいジャンル、コミカルさを強調したいジャンルでは平均F-R値が低くなり、文学と呼ばれるジャンルでは高くなる。 このように、ジャンルが本来持っているFRの値の基準は、「ストーリーレベル」「リアリティレベル」とも呼ばれる。 そして、実写映画はアニメ映画よりF-R値が高い傾向がある。俳優はアニメキャラクターより、どうしても見た目や動作の情報量が多くなるからである。
F-R設定の低い作品例 この素晴らしい世界に祝福を!


F-R設定の高い作品例 ゲーム・オブ・スローンズ


そして、その作品のF-R設定が、その作品のキャラクターの「基準」になる。 作品のキャラクターは、その作品のF-R設定から、あまりに大きくかけ離れないように調整され、それがうまくいかないと作品から浮き上がる。
たとえば「小説家になろう」の作品で、キャラクターの不快な性質(暴力的、過度なツンデレ、優柔不断)が少しでも行きすぎると猛烈な批判を浴びるのは、 「なろう系」の持っているF-R設定がかなり低く、またその許容範囲がかなり狭いからだと分析できる。

高度な手法として、ある種のコメディ映画(三谷幸喜作品など)は、映画というジャンルが本来持っているF-R設定より低い値の演出をわざと狙っている。 人物を平面的に描くことを意識的にやっているので、独特の雰囲気が生まれるが、失敗すると無惨な失敗作と呼ばれる危険性もある。


映画「ダークナイト」のジョーカーはなぜ異様に怖いのか


ダークナイト wiki
ジョーカー (バットマン)



バットマンの宿敵。ダークナイトにおけるジョーカーは、素性不明、出自が何ひとつ明らかにならない。ゲーム(犯罪)を楽しむこと以外に目的を持たない最悪の愉快犯で、どの組織にも属さない。「犯罪、それは最高のジョークだ」と発言していることから、彼にとってジョーカーの名は「犯罪というジョークを生む者」としての意味も含んでいる。
ヒース・レジャーによって演じられたダークナイトのジョーカーは、「ゼロ年代最高の悪役」と呼び声高い。


ジョーカーとはもともとアメコミ「バットマン」に登場した悪役。

つまり、F-R設定がさほど高くないジャンルから、非常にF-R設定の高いシリアスな映画に移植されたキャラクター。

で、ありながら、アメコミ時代のフラットキャラクターの特徴をそのまま持っている。

 ・絶対に改心しない
 
 ・いつでも不敵な態度を崩さない
 
 ・人間らしい動機もない、天性の純粋な「悪」
 
 ・出生不明、情報量が極度に抑制されている
 
 ・どんなときも化粧をしたまま、その化粧はピエロという純粋なフラットキャラクターの歪な変形バージョン
 
 ・動作は芝居がかり、いつも誰かに見られているかのような演技性を持つ


ジョーカー動画



F-R設定の高い映画のなかで、極端にF-R値の低い設定を持ったままなのに、その動作(演技)や演出自体は非常に人間くさく、機転と知性にあふれ、リアルな感触を持っている。
キャラクター内部に「フラットな部分」と「ラウンドな部分」が混じり合っていて、しかもそれが精密に計算されている。
ジョーカーはそのことによって、物語にぴったりハマった悪役にはない異様さを作り出している。
フラットキャラクターでありながらラウンドキャラクターのような細部を持ち、ラウンドキャラクターのような厚みを感じさせるのに本質的にフラット。
だからこそ後ろにある狂気を感じさせるキャラクターになっている。
それはまた、「フラットなキャラクターがラウンドな悲劇を演じる」という、アメリカンコミックというジャンルが築いてきた歴史が反映されている。

このように、キャラクターの内部にF-Rの凸凹を作ることは、現代において魅力あるキャラクターを作るための定番の手法になりつつある。
「~に見えるけど実は……」「~なんだけどよく知ると……」というやつである。
フォスターの古典的F-R論では考えられなかった、現代ならではの高度なキャラクターの構造といえる。

キャラクター論のまとめ …… キャラクターの2層構造


二つのキャラクター論を見てゆくと、どちらの論でも、キャラクターは内部に2層構造を持つことがわかる。
キャライメージ/キャラクター論では「キャライメージ」と「キャラ設定」、F-R論では「フラットな部分」と「ラウンドな部分」。
意味づけは異なるが、基本的な構造は同じである。

●キャラクターには、「グラフィックや属性、単純な定義にもとづいたキャライメージ(フラット性、記号性)」と、「物語に深く結びつく、物語の中で生きるものとしての設定(ラウンド性、全人性)」がある。

●物語の中で機能するとき、あらゆるキャラクターとその細部は、その物語の「F-R設定」との差を試され、そこで魅力的になったりならなかったりする。


E.M.フォースターは、物語の枠組みの中で、いかに生きているかのようなラウンド(全人的)なキャラクターを有効に動かせるかを模索した。
が、現代の私たちはむしろ、ラウンドであるはずのキャラクターが「わざと」フラットな部分を取り入れながら描かれることに慣れてきている。
フラット=記号的であることとラウンド=全人的であることの間で揺れているようなキャラクターに私たちは魅力を感じる。

VTuber …… 現実をフィクション化する新しいキャラクター


VTuberとは、現実の人間のトークに、二次元のグラフィックの皮をかぶせた新しいタイプのキャラクター制作手法。

・中の人がリアルにいる人間であることは全員が知っている。
・中の人はキャラクターにある程度なりきってしゃべるが、完全にはなりきらない。
・キャラクターはしばしば「侵略宇宙人」とか「神様」とか、荒唐無稽といえる設定を持っている。。

VTuberをF-Rキャラクター論から見てみると、「現実の人間のトークを、キャライメージや設定のF-R値を意識的に動かすことでフィクション化する」という仕掛けであることがわかる。
フィクショナルなグラフィックと設定を使うことで、現実の人間のおしゃべりのF-R値を少しだけ動かし「物語の中のおしゃべり」「アニメの中のおしゃべり」に変えている。
このようにしてF-Rのミスマッチを作ることで、「魂」「中の人」を魅力的に見せる仕掛けといえる。



VTuberの最大の特徴は「ロールプレイをやったりやらなかったりできる自由度」にあり、そこで中の人は状況におうじて比較的大きな振れ幅でF-R値を操作できるのである。

現状、VTuberのキャライメージや設定は、F-R値を「中の人」より下げる方向で作られていることがほとんどである。
素性が隠せ顔が隠せるVTuberという仕組みは、メンタルや身体に弱点を抱える人たちの新しい働き先、自己実現の場という役割もある程度担っている。
そういう意味で、いまのVTuberの「中」のF-R値は相当高めである。つまりシャレにならない事情を抱えている人が多い。
離婚家庭育ち、ネグレクト、引きこもり、被いじめ、病気、失明、発達障害など……。
そこにF-R値低めのイメージや設定をつけることで、ある種の明るさ、シンプルさを作り出し、それが配信者やリスナーの救いにつながる。

そういったなかで、VTuberという仕組みの上でシリアスな物語を展開しようとする、F-R値高めの設定はほぼ消えているといっていい。が、逆にそこにVTuberの新しい領域が残されているともいえる。

唯一、にじさんじを卒業した「出雲霞」が、入水死した少女が残したAIという重たい設定を最後まで演じきり、物語を作るVTuberとして足跡を残した。
「中の人」も、出雲霞の設定と同じく不幸な家庭に生まれ育ったことを自ら語っている。キャラクターと中の人が、どちらも高いF-R値を実現した稀有な例であった。

物語化するVTuber① にじさんじSEEDs「OD組」が紡ぐ“劇場型青春”






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