50年代後半~60年代前半を日本映画から見てみる


「もはや戦後ではない」
1956年年頭の「経済白書」はこう書き、流行語となった。
日本の戦後再生期、言いかえれば「焼け跡からの再出発」が一段落した、という意味だった。

サンフランシスコ講和条約以後、混沌とした状況になった50年代の「政治の季節」において、 アメリカ、ソ連を含む全ての勢力が混乱し方針転換を余儀なくされ、結果としてカオティックな政治状況を作りだすことになった。
それが60年安保で一気に爆発したというのが五十年代の日本だった。

このようなドタバタの結果、戦後日本社会は「高度成長」という経済現象を中心として、自然発生的に形作られることになった。
それは極端な資本主義社会であり、労働ということが倫理の中心になり、「サラリーマン」と「職工」が社会の最大層を作った。

こういった戦後社会の特徴が出来上がっていったのは1950年代のことで、 それが強固なシステムを作り、矛盾点も露出しはじめたのは1958年~1964年頃と思われる。
また、この時代は日本映画の最盛期でもあった。
日本映画を調べてみることで、 この時代の日本の雰囲気をもっともよく知ることができる。

「芝居の延長」から「若者の娯楽」へ


全体的にいえば、急激に変わってゆく戦後社会の風潮にたいし、日本映画はやや遅れ気味で変化していったといえる。
それは戦前から終戦直後の日本において、映画というのが「歌舞伎」を中心とする、江戸時代から続く「小屋芝居」の延長版であった面があるからである。

1950年代邦画ランキング

このように、1950年代の大ヒット映画はほぼ半分以上「歌舞伎役者主演の時代劇」になっている。その中で優位に立ったのが時代劇スターを多く抱える東映と、歌舞伎の世界を支配する松竹であった。
加えて注目すべきなのは、「明治天皇と日露大戦争」「ひめゆりの塔」などの戦争映画。
驚異的大ヒットとなった「君の名は」(1953)も、怪獣映画というジャンルを作った歴史的名作「ゴジラ」(1954)も、戦争が深く関わっている映画であった。


1950年代の後半になると映画は一大産業となり、多くのスターを抱える東映は年間上映スケジュールを組み、つねに自社映画を二本立てで映画館で掛けつづける仕組みを考えるようになる。
年間プログラムに基づき映画が量産されるようになり、これを「プログラム・ピクチャー」と呼んだ。

日活アクション ~夢見る戦後映画の盛衰~


日活は戦後に活動していた映画会社(東映、松竹、東宝、新東宝、大映)に比べてやや後発であり、他社で活動するスターを映画に使わないという協定を結ばされていた。
そのため自社に若者を入社させ自前でスターを育てざるをえなくなる。
また、制作費も低予算であったため、大掛かりな時代劇セットは使えず、現代劇を志向せざるをえなかったし、大作を作るのではなくプログラム・ピクチャーを量産して薄利多売にせざるをえなかった。

そういった環境が、結果的に1950年代からの日活の独自の世界を作った。

日活がブレイクしたのは1956年の「太陽の季節」。太陽族という当時の文学的流行を映画にしてヒットをとばし、原作者の弟である石原裕次郎をスターダムにのしあげた。
同じ1957年には、戦後日本映画の最良の一本、エネルギーにあふれた「幕末太陽傳」(川島雄三)が作られている。



映画は夢でありオモチャであるという思想が日活の映画には行き渡っている。
50年代~60年代の日活映画の最大の特徴は、戦後社会を「ファンタジー」として描いたことだった。

焼け跡の上に自由に作られた新しい何か、というのが日活映画の戦後日本であり、そこでは戦後日本は時にポップでありコミカルであり時に叙情的である。

石原裕次郎 ……「戦後というファンタジー」の主役


「石原裕次郎がなぜ絶大な人気を誇る大スターだったのか、今となってはさっぱりわからない」というのはしばしば言われる。
股下90cmだったとか、180cmを超える長身だったとかいう理由が語られること自体、人気の秘密が解き明かされていないことの証明といえる。

デビュー当時の裕次郎の人気を支えていたのはその「不良っぽさ」であった。都会や海岸でわりと豊かに暮らしながら荒ぶる心を持つ青年という造形が新しかった。
これはフランスの「ヌーヴェル・ヴァーグ」に影響されながら、日本映画と日本社会が一瞬だけ持ったファンタジックなキャラクターだった。

石原裕次郎は欺瞞を許さない。
つねに現れるや目立ち、喧嘩し、平穏を乱し、真実を暴き、しかもどこにも所属することがない。そして必ず重たい過去や出生の秘密を持っている。
「痛快」であり「限界知らず」であり「どこか痛々しく」、結果としてカッコよい。顔やスタイルや動きがかっこいいのではなく、行動そのものがかっこよくできているのが人気の秘密だった。
これは神話における典型的な貴種流離譚の主役の造型である。
石原裕次郎は、日活アクション映画の作り出す人工的な「戦後」のファンタジーにもっとも似合うキャラクターだったといえる。





小林旭 …… 「無国籍都市・東京」のファンタジー


しだいにシリアスで骨太になってゆく裕次郎映画とは違い、「戦後日本ファンタジーワールド」をポップでチープな方向に駆け抜けたのが小林旭。
「銀座旋風児」(1959)で描写される「銀座」は、無国籍都市としての東京のイメージを極端に純化したものだった。



同年に作られた「ギターを抱いた渡り鳥」は、典型的な日活アクションであると同時に、「旅情映画」「ご当地映画」でもあり、たとえば後年のフーテンの寅さんシリーズの先駆けであった。



日活青春映画 …… アイドルを見る場としての映画

60年代に入ると、日活アクションは低調となってゆき、かわりに吉永小百合-浜田光夫コンビを中核とする青春映画路線が主軸となってゆく。これは現在まで続く少女アイドル、少年アイドル映画の先駆となる。
また、これは同時に、「懸命に働きながら格差と戦う少年少女」の物語を描くものでもあり、60年代日本に深刻な経済格差、経済的階級が生まれ始めていたことを語るものであった。
欲望をもてあます「太陽族」の映画で台頭した日活は、数年後には「他人の欲望に負けず清らかに生きる」若者の映画を作り始めていたが、それは戦後社会の新しいファンタジー化であるとともに、 ある種の戦前回帰であった。


クレージーキャッツとサラリーマン映画


「ハナ肇とクレージーキャッツ」は、進駐軍相手に活動を始めたキャリア十分のジャズバンド。
放送作家・作詞家の青島幸男と組み、シニカルな歌詞のコミックソングを量産し、コミックバンドとして戦後はじめて人気を得たグループである。



クレージーを映画に使いたいという映画会社は多く、争奪戦になったが、決定的なヒット作を作ったのは東宝であった。
それが1962年「ニッポン無責任時代」である。

東宝は自由な社風で知られ、黒澤明を育てたほかゴジラなどの名作を生んだが、40年代の終わりに労働争議で会社として立ち行かなくなり、実質営業停止状態となった。
そこからの復活の切り札が、黒澤明復帰であり、クレージーキャッツであった。

「ニッポン無責任時代」




口八丁、手八丁の平均(たいら・ひとし)は、バー「マドリッド」で太平洋酒乗ッ取り話を小耳に挟んだ。 太平洋酒の氏家社長に同郷の先輩の名を持ち出し、まんまと総務部勤務になった均の初仕事は、大株主富山商事の社長を買収することだった。 小切手一枚で見事成功。新橋芸者まん丸も彼の凄腕にコロリ、係長に昇進とは全く気楽な稼業である。 しかし三日天下とはよくもいったもの、乗ッ取り男・黒田有人が富山の持株を手に入れたと判って、均はたちまちクビになった。 黒田の黒幕は山海食品社長大島良介だが、彼の娘洋子はボーイ・フレンドの氏家孝作と駈け落ちをした。 さて、均は新社長就任パーテーで黒田に会ったが、余興と宴会のとりもちの巧さから渉外部長に返り咲いた。 ところで伝統ある太平洋酒が山海食品の子会社になるとは、太平側の社員にしてみれば無念な話である。 一方、トントン拍子の均の下宿にマドリッドの女給京子、芸者まん丸、太平洋酒の女秘書愛子が押しかけ、恋のサヤ当てを始めた。 均は愛子の猛烈なキッス攻めにフラフラである。その頃、大島邸を訪ねた黒田が令嬢洋子の結婚話を切り出したところ、彼女には氏家孝作という好きな相手がいると判った。 均の次の仕事は、太平洋酒の商売仇である北海物産からホップの買いつけである。 均は煮ても焼いても食えない北海の石狩社長を、桃色フィルムとお座敷ヌードで攻略したが、美人局の真似とはもってのほか、そのうえ公金横流し、御乱行がバレてクビになった。 だが転んでもただ起きない均は、洋子の縁談のことで大島と黒田が頭を痛めていると知るや洋子の居場所をタネに、氏家社長の復職を迫った。 かくて一転、二転、三転、晴れてその日は氏家家と大島家の結婚式、タキシード姿で現れた均が北海物産の新社長とは誰が知ろう!

「クレージー黄金作戦」

純粋なピカレスク映画だった「ニッポン無責任時代」はヒットするとともに批判を浴び、東宝の重役の指示で二作目以降の植木等はワーカホリックのごますりキャラに変化してゆく。
資本主義の明るさとバカバカしさを描くという問題意識は、労働バンザイというテーマにすり替えられていった。
が、戦後日本の「現世主義」を明るく、そしてシニカルに描くというクレージー映画の本質は、60年代後半まで失われなかった。




東映ヤクザ映画の美学 ~破滅へむかう倫理~


ヤクザ映画-wikipedia
東映ヤクザ映画のはじまりは1963年、鶴田浩二主演の「人生劇場 飛車角」である。
基本的に、ヤクザ映画は売れなくなった古典的時代劇映画の代替品としてはじまった。筋立ての基本は国定忠治や清水次郎長などの大衆時代劇である。
それが爆発的に支持された理由は、ヤクザ映画が「筋」「義理人情」、すなわち精神性重視のメンタリティを守り抜く物語として現代性があったから。
主人公は金銭欲、権力欲、すなわち現世主義的メンタリティだけを持ち筋の通らないヤクザと対立し、敵を斬るが同時に自分も破滅する。
現世主義的には全く報われないからこそ支持されたと言える。

ヤクザ映画は一時期他社でもさかんに作られ、新作映画の半分近くがヤクザ映画という時期もあった。
が、基盤が時代劇にある以上あっというまに様式化され、マンネリとなっていった。それを打ち破ったのが1973「仁義なき戦い」である。
そこに描かれたのは徹底した現世主義と愚かさの世界で、ヤクザ映画が勧善懲悪を背負っていた時代はここで完全に終わった。

「人生劇場 飛車角」1963




「昭和残侠伝」1965




「仁義なき戦い」1973








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