若者専用のコンテンツは50年代終わり~60年代はじめに生まれた


1960年代までにも、「若者が好んで見る作品、聴く音楽」はもちろんあった。
が、それは「幼い子供も見るもの」であったり、「大人も見るもの」であったりした。
「幼い子供にはよくわからず、大人は眉をひそめる」ような若者向けコンテンツが、本格的に誕生してきたのは1950年代の終わりごろ。

若者向けのコンテンツとは?……4つのポイント


1)若者だけにわかるカッコよさ、可愛さがあること
2)不良っぽいこと、世の風潮にたいし醒めていること
3)度を越えて繊細で、コンプレックスかその裏返しの全能感を表現していること
4)かけねなしの本音を語ること

この4つのうち一つ以上を持っているのが、若者向けコンテンツとして受け入れられる最低条件。
2)3)4)をまとめると、「カウンターカルチャー」ということになる。
大人が作った万人向けのカルチャー、広く価値を認められたカルチャーとは異なる価値観を持つカルチャーが若者向けコンテンツのキモ。
それを1)、カッコよかったり可愛かったりするキャラクター性に乗せて発信するというのが理想形になる。

若者のためのコンテンツの4要素を整理してみる


1)アイドル系……日常から遊離するほど可愛くカッコいい男女をめぐるコンテンツ



2)デンジャー系……なんらかのアウトロー的、ドロップアウト的な要素を強調したコンテンツ



3)繊細系、厨二病系……傷つきやすい心や、妄想を強調したコンテンツ



4)リアル系、露悪系……日常や学校、社会の現実を率直にシビアに語るコンテンツ


若者向け音楽を作り出した三人


「若者専用」のコンテンツは、まず音楽から生まれた。
いまでも「若者専用」の中心にいるのは音楽。
それには色々な理由が考えられるが、「踊れる」というのが大きい。

若者専用音楽の先駆けとなったのは、アメリカ黒人の音楽。
すなわち、ジャズ、リズム&ブルースと、ロックンロールと呼ばれる音楽である。
が、それが人種を越え若者に親しまれるようになるには、白人がそのジャンルに参入する必要があった。

はじまりはエルヴィス・プレスリー


1950年代の後半、「若者のためのカルチャー」に画期的な一歩を記したのが、エルヴィス・プレスリー。
その音楽自体は、ロカビリーと呼ばれる。先行する黒人のR&B、ロックンロールを、白人におなじみのカントリー風味にアレンジした折衷ジャンルだった。
だが、若者向け、として挙げた要素を多く体現していた、という意味で、エルヴィスは圧倒的に新しかった、といえる。白人であるがゆえに「セクシーでかっこよく」、「傷つきやすい不良」というイメージを色濃く漂わせることができた。
若者向けコンテンツの条件のうち、1)、2)、3)を兼ね備えていたといえる。



歌詞で「本音が語れる」と証明したボブ・ディラン


若者向けカルチャーの歴史で、プレスリーに劣らぬ重要性を持っているのが、1963年ごろ、ビートルズにわずかに先行して有名になったアメリカのボブ・ディラン。
彼は若者が喜ぶアイドル性やセクシーさを全く持っておらず、3)の繊細さすら薄かったが、「掛け値なしの本音」「なまなましい声」を届ける能力で抜きん出ていた。
エルヴィスが唯一持っていなかった4)の要素を持ち込み、エルヴィスの音楽が持っていた「偽善性」「借り物性」を撃つことでカリスマになってゆく。
そのメッセージ性はビートルズに大きな影響を与え、ディランのほうもビートルズに影響を受けてフォークからロックに移行してゆく。

初期の代表作「風に吹かれて」は、いま普通に聴くと「なんかいい歌」で終わるかもしれないが、当時のアメリカ人にとってははっきりした暗喩として聴こえた。
当時アメリカの世論を二分していた「公民権運動」を後押しする、黒人のための歌だったからである。

参考:ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した意味を語る
参考2:アフリカ系アメリカ人公民権運動



黒人音楽のいいとこ取りをしていたエルヴィスとは反対に、ディランは黒人のための歌詞を黒人霊歌のメロディに乗せて歌いながら「自分の音楽」にしてみせた。
このことがアメリカ音楽に与えた衝撃は絶大だった。以後、アメリカの音楽はしばらくディランのフォロワーで溢れかえることになる。

が、ディランは逆にビートルズなどに出会うことで「メッセージフォーク」から「フォーク・ロック」へと作風を変えてゆく。これは、「フォークこそもっとも意識高い音楽」という当時の風潮からするととんでもないことで、ディランは大ブーイングを浴びることになった。

アイドルから怪物になっていったビートルズ


1963~4年ごろにブレイクしたイギリスのザ・ビートルズは、初期は完全なお坊ちゃん系アイドルバンドだった。
現在のジャニーズまで続くアイドルグループという形の先駆者だった。
それがボブ・ディランなどの影響を取り込み、誰もが認めざるをえないような、おそろしく高度なのにポップな音楽を、アイドル自身の作詞作曲で作るようになっていった。
彼らの自由な歩みは、彼らが黒人と黒人音楽に対する深刻な二面性を強いられない、イギリス人だったことが大きかった。

エルヴィス→ビートルズの流れの中で、「ロックこそ若者専用のカッコよくセクシーな音楽」というイメージが出来上がっていった。
また、ディラン→ビートルズの流れの中で、「若者向け音楽はさまざまなことが語れる」という可能性が拓かれていった。
1)~4)まで全てを兼ね備えたコンプリート・パッケージであったといえる。
ビートルズのライバルとしてシノギをけずった、ローリング・ストーンズやキンクスなども、カラーは違えど同じようにコンプリートな若者向けバンドを目指した。
彼らは完ぺきな「若者向けのバンド」になったが、同時にそれは、「若者向け」という枠を飛び越えてしまうことでもあった。
イギリス政府から勲章を授与されたビートルズは、「若者向けの音楽で大成功すれば一生大物扱いされる」という人生のサンプルを結果的に作ってしまった。


エリナ・リグビー 歌詞
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Ah look at all the lonely people
あの孤独な人々を見なよ
Ah look at all the lonely people
あの孤独な人々を見なよ

Eleanor Rigby, picks up the rice
In the church where a wedding has been
結婚式の後の教会でエリナー・リグビーは
床に落ちたライスシャワーを拾い集める

Lives in a dream
夢を見て生きる
Waits at the window, wearing the face
That she keeps in a jar by the door
ドアの近くの壺に保管している化粧を付けて
窓際で待っている
Who is it for
誰も来やしないのに

All the lonely people
孤独な人々よ
Where do they all come from?
彼らはどこから来るの?
All the lonely people
孤独な人々よ
Where do they all belong?
彼らの居場所は一体どこなの?

Father McKenzie, writing the words
Of a sermon that no one will hear
マッケンジー神父は、
誰も聞かない説教のセリフを書いている

No one comes near
誰も近づかない
Look at him working, darning his socks
In the night when there’s nobody there
見なよ、誰もいない夜に、
靴下の穴を縫っている彼の姿を
What does he care
彼は何を気にするんだろう

All the lonely people
孤独な人々よ
Where do they all come from?
彼らはどこから来るの?
All the lonely people
孤独な人々よ
Where do they all belong?
彼らの居場所は一体どこなの?

Ah look at all the lonely people
あの孤独な人々を見なよ
Ah look at all the lonely people
あの孤独な人々を見なよ

Eleanor Rigby, died in the church
エリナー・リグビーは教会で死に
And was buried along with her name
彼女の名とともに埋葬された
Nobody came
参列者はいなかった

Father McKenzie, wiping the dirt
From his hands as he walks from the grave
マッケンジー神父は、
土で汚れた彼の手を拭い、墓地から去っていった
No one was saved
誰も救われなかった

All the lonely people
孤独な人々よ Where do they all come from?
彼らはどこから来るの?
All the lonely people
孤独な人々よ
Where do they all belong?
彼らの居場所は一体どこなの?


以降70年代前半まで、不安定な社会情勢を直接反映した生々しくメッセージ性の強い音楽が好まれるアメリカに対し、 スター性のある大物ミュージシャン(とくにバンド)を生み出すイギリス、というふうに若者音楽の世界は色分けされることになる。

60年代後半のアメリカは、ベトナム戦争の泥沼化と公民権運動をめぐる軋轢で揺れ、西海岸では多くの若者たちが非暴力と差別撤廃を求め、より自然な生き方を求めるようになる。
自然への回帰、自由恋愛、家庭からの解放、ドラッグ摂取の自由などを歌った彼らの運動は「ヒッピー・ムーブメント」と呼ばれた。
1967年、サンフランシスコで2万人が自然発生的に集った「サマー・オブ・ラブ」イベントからヒッピームーブメントは加速。
1969年の伝説の野外フェス、ウッドストックで頂点に達することになる。



しかしウッドストックで名をあげたスライ・ストーン、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックスらはいずれも薬物によって命を落とすかアーティスト生命を絶たれた。

60年代日本の若者コンテンツ


エルヴィス、ディラン、ビートルズらの特徴を、輸入して再現する形で、日本の若者向けコンテンツは始まった。

エルヴィス→ビートルズの系譜 …… グループサウンズ


50年代終わりごろ、エルヴィスは早めに日本にも紹介され、さっそく影響を受けたタレントが出てきた。平尾昌晃などがその代表。

しかし本格的に「若者のみに受けるミュージシャン」が出てくるのは、ビートルズが登場してからのことになる。
ビートルズのアイドルとしての側面に色濃く影響を受けて活動し、人気を得たのが「グループ・サウンズ」と言われるグループたち。おもにジャズ喫茶や、小さなライブハウスで活動していた。66年のビートルズ来日の頃から、急激にGS人気が盛り上がる。
かまやつひろし・堺正章のザ・スパイダース、沢田研二・岸辺一徳のザ・タイガース、などが有名。
しかし彼らは自分で作詞作曲もほとんどせず、セルフプロデュースもしなかったので、1)の要素に偏っていた。
当然ディランやビートルズの持つメッセージ性や本音の部分も彼らには皆無で、ただ当時としてはポップな音楽を演奏するバンドにすぎなかった。

こういった「日本的な若者向け流行音楽」は、やがて日活純愛映画などと結びついて、少しずつ「青春歌謡」を「アイドル歌謡」に変えてゆくとともに、 現在の「ジャニーズ」や「アイドルグループ」のあり方の原型を作ることになり、お茶の間、すなわち全年齢に受け入れられてゆくことになる。



日本のフォークソング


日本には50年代終わりから「フォークソング」の土壌はあった。これは「歌声喫茶」という、客が合唱を楽しむ店で歌われることが多かった。 1955年、日本共産党が方針変更し「歌と踊りでオルグする」方向を打ち出したことも一役買っている。
60年代の日本のフォークは基本的にはこの合唱歌の流れを引き継ぐサークル用の歌であった。



しかし1960年代後半、ボブ・ディランにはじまるアメリカの政治的なフォークソングが日本に紹介されるようになると、これに触発されつつ日本独自の社会風刺フォークを歌い始めるものが登場した。
その代表が、「フォークの神様」こと岡林信康である。



高度経済成長期の日本社会の非人間性を、はじめて日本らしい歌にしたといっていい。
岡林はその他にも、部落問題や日雇い問題など、日本のリアルな社会問題をしみじみとわかりやすく歌い突出したクオリティを示した。

1968年になると、アメリカやフランスの大学で、反ベトナム戦争を唱える学生たちが暴動を起こす。
それに同調せんとする若者たちは全共闘という組織を作り東大闘争、日大闘争を起こす。
そういった中で岡林はカリスマとなり、「山谷ブルース」は大学生の愛唱歌となった。
 新宿西口フォークゲリラ

しかし当時の大学生活動家たちが、部落問題や日雇い問題を本当に自分の問題として考えていたか、反ベトナム戦争が本当にリアルな争点だったかというと、そうではなかった。
急速に現代化し息苦しくなってゆく日本の社会に対して違和感を持っていたインテリ層の若者たちに、60年安保の残党が乗っかって利用する形で大学闘争は起きた。
それに利用されていることに気づいた岡林信康は71年には一度引退宣言をし田舎に引っ込むことになる。

日本にボブ・ディランの影響を本格的に受けたミュージシャンが登場するのは1970年ごろで、そのミュージシャンが吉田拓郎であった。
しかし皮肉なことに、吉田拓郎は音楽的にはディランの後継者でありながら、「結婚しようよ」と個人的な幸せを歌うことでスターになってゆく。
政治の季節の終わりを「祭りのあと」と表現する吉田拓郎の登場で、70年代フォークは若者の愛唱歌としての地位を保つとともに歌謡曲と混合してゆく。
これがのちに荒井由実(松任谷由実)や中島みゆきを生み、ニューミュージックと呼ばれるようになる。







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