60年代の日本


1960年の安保闘争をひとつの転換点として、戦後日本の基本理念として「戦後デモクラシー」、すなわち民主平和人権の思想が浸透していったことはすでに述べた。
それとともに、日本は経済最重要視の社会になってゆく。そこでは「仕事で有能であること」「一生懸命働くこと」「あきらめずに前に進むこと」が最重要のモラルとされた。

「勤勉で優秀な日本人」たちはこの時期、ふたつの大きなイベントを成功させる。ひとつは初代東京オリンピック(1964)、もうひとつは1970年の大阪万博であった。
とくに70年代大阪万博は、「未来技術」をテーマにした先進的なイベントで、60年以降の日本人の努力と思想が詰め込まれた集大成であった。



もともと明治以降の日本に根強かった勤労倫理の復活と、技術にたいする自信、そしてどんどん挙がる成果と未来への期待が日本人のメンタリティをポジティブにしていた。
しかしその反面、急速な発展はいまでいうところの「パワハラ」「モラハラ」を膨大に生み出した。
焼け跡の中で死ぬも生きるも自由に過ごしていたのに、いつのまにか見えない締め付けに取り囲まれ窮屈になっていくという感覚を、とくに経済的に恵まれない人々は強く持つようになった。

その中で日本のカルチャーは、無邪気でポジティブな要素を次第に目減りさせながら、一種の薄暗さと切迫感を抱えることになる。
その象徴が「東映ヤクザ映画」であり、フォークソングの岡林信康であり、漫画でいえば「劇画」であった。

この時期の表現者たちが抱えていたテーマは2つ。ひとつは「戦後というファンタジーの喪失」であり、ポストモダンへの臨界点に達しようとしている社会の息苦しさ。
そしてもうひとつは、行き過ぎた経済偏重がもたらす「社会の俗物化」「拝金主義」にたいして、倫理的なストイックさ、精神性を求める姿勢。
このふたつはお互いに矛盾する点を持っているが、当時の人たちはしばしばこの2つのテーマをごっちゃにした。

68~69年大学闘争


「全共闘(全学共闘会議)」と呼ばれる大学ごとの学生組織が、大学上層部の腐敗告発をを謳いストライキに入り、やがて反米、反ベトナム戦争、などの政治的主張に踏み込んで本格的紛争へ。
基本的には、アメリカやフランスの大学で起きた反戦暴動に強い影響を受け、海外の彼らと歩調を合わせようという意識が高かった。

「全共闘」を結成し大学闘争のコアになったのは60年の「ブント」とブントから分かれたグループ、すなわち反共産党の共産主義者たちであった。彼らはまとめて「新左翼」と呼ばれた。
が、「大学改革」という一組織の問題から、反米、反ベトナム戦争、アメリカ帝国主義打倒へと至る彼らの主張には無理が多く、何のために暴れてるのか急激にわからなくなっていった。

大学闘争は10年前の安保闘争と根本的に違う。安保闘争は、世界も日本もまだ拠って立つべき思想的なベースがないなかで、全員が迷い間違ってカオスを生み出した運動だった。
大学闘争は、60年代にどんどん資本主義の方向にルートが決まっていく戦後日本にたいするおそすぎた抵抗だった。それと同時に、思想的説得力をなくしてしまった共産主義者たちの最後のあがきでもあった。

 東大安田講堂立てこもりの現場



この運動に参加したのはほぼ大学生のみで、百以上の大学で紛争が起きはしたが日本国民全体を巻き込むパワーはなかった。
鎮圧された後、残った組織は過激化し、ハイジャック事件、内ゲバ殺人、山荘立てこもりなどの事件を立て続けに起こす。
これによって新左翼は決定的に世間から孤立し、アングラ化・カルト化してゆくことになる。

三島由紀夫割腹自殺


70年11月、作家の三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊本部に突入。
総監を人質に取り、憲法改正のため自衛隊はクーデターを起こせという演説をしたが、自衛隊員の反応は冷ややかだった。
それを見た三島は日本刀で割腹自殺を遂げた。



急激な成長を続ける日本社会で、その矛盾や危険を訴える者たちは行き詰まり、強引な実力行使に出たがいずれも敗北。
日本社会は現世主義の色を濃く残したまま、70年代にゆっくりと成熟してゆく。



いつか君と行った映画がまた来る
授業を抜け出して二人で出かけた

哀しい場面では涙ぐんでた
素直な横顔が今も恋しい

雨に破れかけた街角のポスターに
過ぎ去った昔が 鮮やかによみがえる
君もみるだろうか「いちご白書」を
二人だけのメモリー
どこかでもう一度

僕は無精ヒゲと髪をのばして
学生集会へも時々出かけた

就職が決って髪を切ってきた時
もう若くないさと 君に言い訳したね

君もみるだろうか「いちご白書」を
二人だけのメモリー
どこかでもう一度

70年代カルチャーの特徴


1)「サブカルチャー」「カウンターカルチャー」と呼ばれるカルチャーが若者を中心に支持を集めた。

2)「外に出ること」「旅をすること」「放浪すること」、すなわち「身軽さ」への憧れが中心テーマになった。

3)上昇するのではなく下降することを志向する若者の出現。その象徴が「アングラ演劇」。

4)それらの特徴の源にあるのは「アンチモダン」、すなわち現代化してゆく社会への違和感と怖れ。

「サブカルチャー」とは何か


言葉の本来の意味は、「ハイカルチャー」でない文化のこと。
ハイカルチャーとは伝統と教養を求められるグレードの高い文化のこと。
クラシック音楽やオペラ、ある種の絵画、日本でいえば花道や茶道、能などがそれにあたる。
そうでないものを周辺文化、すなわち「サブカルチャー」と呼ぶのが本来の用法。
「カウンターカルチャー」という言葉もほぼ同じ意味で使われる。

現代日本においてサブカルチャーとは何を指すのか、という問いにはいくつもの答えがあり定義はさだまっていない。
が、ひとつ言えることは、サブカルチャーが人々の中で「文化のひとつ」と認められてきたのは70年代あたりからであり、このとき「サブカルチャー」として認識されていたのは 「若者の間で支持されたことをきっかけに広がったカルチャー」、すなわち漫画、映画、アングラ演劇、そして海外のマイナー文学であった。

「書を捨てよ、町へ出よう」


70年代の若者ほど、家に帰りたがらなかった人々はそういない。
寺山修司の言葉通り、若者たちは喫茶店や酒場にえんえんと溜まり、路上をブラブラし夜通し話していた。
この傾向を「フーテン文化」とメディアは呼んだ。その聖地は新宿で、この時から新宿は若者の町になった。


「フーテン族」の聖地 新宿風月堂
 左 永島慎二「フーテン」の一コマ 右はそのパロディ

70年代を代表するテレビドラマ「俺たちの旅」は、こういう若者の生き方をそのまま映像にしたドラマ。
オープニング映像でも、外をひたすらつるんで歩き、みずから好んで濡れたがる当時の若者の感覚がよく出ている。

70年代漫画の展開


70年代、漫画は第一次全盛期を迎えた。手塚治虫の影響を直に受けた藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、永井豪といった漫画家たちが代表作を書きはじめ地位を確立してゆく。 と同時に、白土三平、水木しげるなど、貸本漫画で活動してきた漫画家たちが表舞台に出てきて、手塚漫画とは別種の世界を展開した。

◎少年/子供向け漫画


水島新司「ドカベン」/永井豪「デビルマン」/藤子不二雄「ドラえもん」
松本零士「銀河鉄道999」/山上たつひこ「がきデカ」/高橋留美子「うる星やつら」
ビッグ錠「庖丁人味平」/ちばてつや「おれは鉄兵」/やなせたかし「アンパンマン」
 デビルマン

そして創始者手塚治虫は、1965年あたりから漫画家としては低迷期に入るが、1973年「ブラックジャック」で10年近く続いた低迷から蘇り人気作家の座に返り咲いた。

◎少女漫画


萩尾望都「ポーの一族」/大島弓子「綿の国星」/竹宮恵子「風と木の詩」
青池保子「エロイカより愛をこめて」/樹村みのり「贈り物」/池田理代子「ベルサイユのばら」
田渕由美子「フランス窓便り」/陸奥A子 「たそがれ時に見つけたの」/美内すずえ「ガラスの仮面」
山本鈴美香「エースをねらえ」/庄司陽子「生徒諸君!」/大和和紀「はいからさんが通る」
ポーの一族

貸本漫画で新しい少女漫画を描いた八代まさこなどの影響のもと
俗に「昭和二十四年組」といわれる作家たちが次々に傑作を発表。
漫画にファンタジーの要素を持ち込むとともに、複雑な心理的ドラマを構築した。
七十年代終わり頃は、「少女漫画の時代が来た、他ジャンルの漫画を質的に圧倒している」といわれ、多くの批評家が少女漫画を語った。

劇画ブームと青年向け漫画の成立


こういった漫画全盛期の基礎になったのが、「劇画」とそれを源流とする青年漫画であった。
「劇画」は、1950年代、貸本漫画の一種として登場したが、1960年代に入るとしだいに人気を得、65年あたりから「劇画ブーム」が起こった。

劇画がその地位を高めたのには二つのきっかけがある。
ひとつは、1960年ごろ、白土三平の「忍者武芸帳」が、貸本漫画としては異例のヒットになったこと。
 忍者武芸帳

そしてもうひとつは、1965年、手塚とのトラブル(W3事件)をきっかけに、少年マガジンが劇画作家を積極的に起用するようになったことである。 1965年以降、「劇画」的なタッチが人気を呼び、貸本作家がどんどん漫画界に進出するようになった。
貸本漫画の裏番長的存在だった水木しげる、貸本漫画の無名の新人だった水島新司やさいとうたかおやモンキー・パンチなどが、ヒット作を産んでゆく。
それに押されるように、手塚治虫は長い低迷期に入ってゆく。 こうして劇画、すなわちリアルでシリアスで暗い世界観の漫画が、漫画全体に影響を与え、漫画の世界をより青年向け、大人向けへと広げてゆくことになった。

こういった流れのなかで、手塚治虫の影響を受けて出発した永島慎二、真崎守、村野守美なども、世相を反映した青年向け漫画を積極的に書くようになってゆく。

アートに近づく漫画……「ガロ」


1964年に創刊された雑誌「ガロ」は、週刊誌などには絶対に載らないタイプの実験的、叙情的な漫画をつぎつぎに掲載しはじめる。
「ガロ」の漫画家たちは、70年代になると時代の空気をそのまま表現する存在となり、アングラカルチャーと連携しながらユニークな地位を築いてゆく。

そこでは、「放浪」と「下降」という、七十年代の基本的な気分がそのまま表現されていた。

つげ義春


「旅漫画」というジャンルを作った作家。
「放浪と下降の漫画家」の典型として、知識人層を中心に別格の評価を受けた。
「漫画に文学性を持ち込んだ漫画家」ともいわれる。

つげ義春の漫画には、70年代サブカルチャーが求めたものが全て備わっていた。地面を這うような土着性、わざとらしいドラマ性の排除、そしてどこまでも旅を続けまったく上昇しない放浪。

鈴木翁ニ


無頼な極貧生活をそのまま漫画にしつつ、独特の叙情性を持つ漫画を描き続けた。
もっともガロらしい漫画家といわれ、安部慎一、古川益三と並び、「ガロ三羽烏」と呼ばれた。
70年代のどこか薄暗い空気を、そのまま漫画に定着した作家といえる。

つげ義春チルドレンの一人ではあるが、その作品は70年代の「気分」をより色濃く描こうとしたもので、ある時代でなくては生み出されない1回性に満ちている。
「マッチ一本の話」は子供が放浪する童話(ペリーヌ物語や母をたずねて三千里など)に近い形を取りながら、永遠に終わらない旅を描くことで独特の叙情性を獲得している。

川崎ゆきお


超B級漫画家として貧乏生活を送りながら独特の文才を発揮し続けてきた作家。
絵の下手さに定評があり持ち込み自由のガロですら「この絵は載せていいのか」と論議が巻き起こったという。
彼が作り出した「猟奇王」は、江戸川乱歩の怪人世界を夢見てあてもなく走る中年男で、 その哀愁とバカバカしさで一部マニアの支持を集めた。

「ロマンの日は遠く」に描かれている「猟奇王」とは、日活アクションのマイトガイを「悪サイド」で描きなおしたものといえるかもしれない。
50年代日本が持っていた「戦後というファンタジー」をいつまでも生きようとした男の物語である。
彼は70年代日本の戦後デモクラシーに衝突して、世間にみちる「正義」という建前の薄っぺらさに絶望し「怪人」となることを選ぶ。
しかし、彼にはなすべき「悪事」がない。彼が生きている現実と彼のファンタジーがあまりにずれているから。
だから大阪郊外の廃ビルで愚痴りながらお茶を飲むしかない。

「猟奇王」シリーズの面白さは、猟奇王自身は自分が時代とずれた空虚な存在だと知っているのに、外から見れば猟奇王は「現実をゆるがす危険な存在」となっていること。
彼が背負っている戦後というファンタジーにはもう実体がないが、それでも70年代の現実社会にとってはそのファンタジーは猛毒であり人を狂わせる。
だから「ただ月夜の下で走る」というだけの行為が毎回大騒動になり、そして結局はなにも起こらずに走り疲れて終わる。
70年代日本の矛盾したメンタリティを構造的に表現した作品であり、その絵の拙さにもかかわらず愛読者をたくさん生み出した。


七十年代ガロ漫画



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