ここまでの年代別まとめ

■1950年代

・まだ戦後デモクラシーが普及しきっておらず、始まったばかりの冷戦も先行き混沌としていた。
・自由主義と社会主義が激しくせめぎあう政治の時代。日本人の考え方も種々様々で、意識の基盤となるものがなかった。
・みんなを縛る思想がないぶん自由度は高かった。発展途上で空き地がたくさんあった時代、「新しいものを作る」という人工のドリームに人々は惹かれた。
・お金持ちであることが人々の反発を買わない時代だった。そこにはまだ「拝金主義」の影が大きくなかったから、といえる。
・しかし安定を求める人々は企業という傘のもとで暮らすことを求め、日本はしだいに集積型の資本主義社会=サラリーマン社会へと進んでいく。

■1960年代

・戦後デモクラシーが浸透しはじめ、日本人は少しずつ良心的に、平和主義になっていく。
・経済が爆発的に発展し、人々のなかに「懸命に働くこと」が至高の価値であるという考え方が強まってきた。
・社会が整い始めると、50年代の「戦後というファンタジー」は急速に消えていく。それとうらはらに、「拝金主義」「成り金」にたいする反発があちこちに現れ始めた。社会がマネー中心で動き始めたことへの反発。
・急速に真面目でまともになっていく日本人は、戦後デモクラシーを持ち込んだアメリカ、とくにその若者層と呼応しアメリカのヤングカルチャーを受け入れ始める。これが日本の「サブカルチャー」「ロックカルチャー」の始まり。

■1970年代

・戦後デモクラシーが完全に普及。日本人は平和を愛し人権を尊重する優しい人たちになった。
・経済の発展は止まらず、世の中はどんどん便利に、合理的に、良心的になっていく。対外的にもなにひとつ大きな事件はなかった。
・若者向けのサブカルチャーは、こういった社会の進歩と逆行するように動いた。お金を持たない貧乏な暮らし、家に帰らないこと、近代以前に還ろうとするアンチモダン。つまり「下降」と「放浪」への憧れ。
・戦後デモクラシーのような誰にも否定できない理想で統一され、対立が見えにくい社会は同時に「思想の牢獄」でもある。だから、その牢獄の外にあるものに人々は惹かれる。
・だが、牢獄の外に出てもこれといったアテがないことも当時の人々はよく知っていた。だからこそ、たどり着けない目標をめざす「ロマン」の物語が成立した。

80年台のまとめ

バブル経済と80年代


◎80年代=バブル、というイメージだが、実はバブル経済の始まりは85年の「プラザ合意」。

◎80年代前半のアメリカはドル高により輸出の不振に苦しみ、反面、日本は円安ドル高を武器に輸出が伸び空前の貿易黒字を積み上げた。

◎戦後積み重ねてきた「日本のものづくり」が世界を制した瞬間で、この時期日本人は大きな自信を身につける。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という本がベストセラーになった。


日本の自動車を叩き壊しアピールするアメリカの工場労働者

◎これに耐えかねたアメリカが、各国の協力を要請し暗黙の了解でドル安への誘導を試みたのが「プラザ合意」。
この合意のしばらく後からドルは下がり始め、アメリカは国際競争力をある程度取り戻したが、日本では逆に輸出にブレーキがかかることが考えられ円高不況が心配された。
これに対応すべく、日本銀行は翌年公定歩合を引き下げ、市場に多くマネーを供給するようになる。

◎これによって日本には巨大な金余りが生まれたが、円高により製造業が不安視されたため、そのマネーは不動産、金融、非生産業に向かった。
こうして地価がハネ上がり、それによって一部株式もハネ上がり、日本国内でおそろしく巨額の金がモノを経由せず動くシステムが出来上がってゆく。いわゆるマネーゲームである。
日本経済は製造業の天下から金融重視、サービス重視に変わってゆく。

◎ただでさえ巨額の金が動く状態に、円高による円の価値アップも重なり、日本人は世界から見ればとんでもないレベルで金持ちになっていった。贅沢な海外旅行もし放題だった。
これがいわゆる「バブル経済」である。バブル経済による異様な経済膨張は93年頃まで約8年続いた。

◎しかし1989年には、時代の不安定化を予感させる出来事があいつぐ。
中国では天安門事件、ドイツではベルリンの壁が崩壊し、東欧の社会主義国はつぎつぎに崩壊。
日本では同じ年に昭和天皇が崩御され、あとを追うように手塚治虫、美空ひばりが死去した。

「ネクラ」と「ネアカ」


◎根っこが暗い「ネクラ」と、根っこが明るい「ネアカ」。この言葉は、80年頃タモリが言い出したとされる。

◎70年代は「ネクラ」がよしとされる時代だったが、80年代に入ると、その「ネクラ至上主義」が反発を受けるようになってゆく。
「社会に違和感を持ち、放浪し下降しようとする文化」に対して、「そんなに力んでどうするの」というカウンターが生まれた。

◎80年代も中盤に差しかかると、急激に「ネアカ」、つまり楽天的で明るく振る舞う現世主義的な生き方(今でいうパリピ)がよしとされてゆく。

 

◎80年代にはいってしばらくしてからの若者たちは、70年代サブカルチャーの薄暗さをほとんど全否定した。
短期間の間に、これほどカルチャーをめぐる雰囲気が一変したことは戦後史では他に例がない。
「本当のこと、大人が言えないことを言う」という戦後若者カルチャーのひとつの軸が、この時代はほぼ消えてしまった。

◎戦後日本においてはこれまでカルチャーは、時代が明るければ暗い方向へ、時代が暗ければ逆に明るい方向に向かう傾向があった。つまりカウンター色が強かった。
しかし80年代になって初めて、世相と文化が明るい方向で一致することになる。

80年代の世相とテレビドラマ


80年代はテレビの全盛時代だった。その中でももっとも勢いがあったのがフジテレビで、「楽しくなければテレビではない」は、バブル時代を象徴するフレーズのひとつだったといえる。
テレビドラマにも多大な予算がかかっていた時代であり、世相を映すドラマが数多く生まれた

80年代前半 <世相>


◎1980

・「ネクラ」「ネアカ」という言葉が流行しはじめる。

・松田聖子の髪型「聖子ちゃんカット」大流行。翌年のトレーナー流行とあわせ、ニュートラ、ハマトラと呼ばれるお嬢様ファッションが流行る。


・「イエロー・マジック・オーケストラ」国内ツアー開始。テクノポップといわれる、電子楽器を用いたポピュラーミュージックが人気を集めはじめる。



◎1981

・田中康夫「なんとなく、クリスタル」がベストセラーに。ブランドものを身につけることがおしゃれ、という意識がひろまる。

・薬師丸ひろこ主演「セーラー服と機関銃」がヒット。大作中心だった角川映画はこれを機にアイドル映画に転身、「時をかける少女」などの傑作を生み80年台前半の映画界を牽引することになる。

・あだち充「タッチ」が少年サンデーで連載開始。86年まで連載は続き、80年代ラブコメ漫画のマイルストーンとなる。

ヒロインの朝倉南は現実離れした理想の少女で、なまなましい70年代の人間描写とは全く別の描かれ方をされたキャラクターだった。

◎1982

・糸井重里のコピー「おいしい生活」が登場。西武セゾングループの店舗や広告が若者文化の中心になってゆく。

・またこの頃、「ガロ」の傾向がはっきり変わり、糸井重里とのコラボなどで80年代的な編集方針になってゆく。

◎1983

・東京ディズニーランド開園。

・「オールナイトフジ」放映開始。女子大生ブーム始まる。



・任天堂、ファミリーコンピュータを発売。

・評論家中森明夫、「おたく」という表現を使いはじめる。ただし非常に馬鹿にした使い方で、のちに批判を浴びた。

80年代前半 <テレビドラマ>


80年代前半のテレビドラマは、「脚本家の時代」といえる。
倉本聰、山田太一、向田邦子の「シナリオライター御三家」を代表とする実力派シナリオライターが注目を浴びて力作を作った。
(ただし向田邦子は81年に事故死していて、残した作品だけがドラマ化され続けた。)

彼らは総じて70年代カルチャーの最後の表現者だったといえる。
時代がバブルに向かう直前の、70年代の残り火がテレビで表現された。
アングラカルチャーがテレビに到達するのに80年代初頭までかかった、ともいえる。

■1979~1983 「3年B組金八先生」 脚本:小山内美江子ほか

中学教諭坂本金八が、クラスの生徒たちの問題に真剣に取り組んでゆく、という学園ドラマ。
はじめて作られた、シリアスで現代的な学園ドラマであると言われている。
現在まで続く学校問題、家庭問題をいちはやく追ったドラマであると同時に、69年学園闘争の遠い残響をあわせもつドラマだった。

■1981~ 「北の国から」 脚本:倉本聰




妻の不倫により東京の生活に嫌気がさした男が、長男長女を連れて北海道の僻地(富良野)へ移住する。
アンチ東京、アンチ日本戦後社会の思想を全面に押し出し、かつ、田舎の厳しさも容赦なく描いたことで評価が高かった。
が、後年になるほどそのストーリーはすさまじく暗くなってゆく。
不倫、責任転嫁、破産、逃亡、追放など、暗い出来事がこれでもかと描かれて、登場人物はみな不幸になってゆく。

倉本聰、井上ひさし、一つ下の高畑勲などの1934~35年生まれのクリエイターたちは、このころ「大家」「超一流」となり、溜めてきた戦後日本への憤りと怨念を作品の中に反映させてゆく。
その作品はいずれも、いっけんエンターテインメントでありながら、けっしてハッピーエンドにならない、後味の悪い作品群だった。
「戦後の社会のなかで人は幸せにならない」という確信と呪詛がそこにはある。
それは一定の支持を受けつつ、時代の波のなかにしだいに埋没していった。

■1983 「ふぞろいの林檎たち」 脚本:山田太一

シナリオライター御三家の中で、もっとも80年代に対する時代感覚をもっていたのが山田太一だった。
三流大学の学生たちが、女の子になんとかモテよう、明るい未来を手に入れようと悪戦苦闘する物語。
学歴差別、という現代的なテーマをいちはやく取り上げ、リアルタイムに近い風俗描写のなかで描く。
70年代的な匂いを色濃く残しつつ、「男女七人夏物語」などの80年代後半のドラマの原型となった。

■1983 「おしん」 脚本:橋田壽賀子



日本のみならず世界でも大ヒットを記録した朝の連続テレビ小説。
とくにアジアと中東では圧倒的大人気。

貧しい家に生まれた「おしん」が、その賢さと努力で、不幸に見舞われながらもたくましく生きてゆく物語。
60年代以降、日本のカルチャーの中につねに見え隠れしていた「働くけなげな青春」イメージの権化といっていい作品。

日活純愛映画の伝統を受け継ぐNHK朝のテレビ小説の中でも、ひときわ古典的で、、少女小説や「若草物語」「ハイジ」などの児童物語の流れを汲むドラマ。
「母をたずねて三千里」「ペリーヌ物語」などの、世界名作劇場アニメシリーズとも相通じている。

「おしん」の作品世界は一見、70年代の土着的なアンチモダンの世界観に沿ったもののように見えなくはないが、実際は違う。
そこには「ロマン」もないし「社会からの脱落」や「下降」もない。基本的には成り上がりの出世物語である。
「おしん」の大ヒットは、「古典的な出世物語」に対する抵抗感が人々から失われ、ウェルメイドな成功物語に 人々の関心が移りつつあることのひとつの表れでもあった。

80年代後半 <世相>


◎1985

・高級ディスコ「マハラジャ」麻布に開店。ディスコブームの先駆け。

・フジテレビ「夕やけニャンニャン」放映開始。おニャン子クラブという女子高生グループが大人気に。

◎1986

・プールバー(ビリヤード台を設置したバー)が大流行。

◎1987

・ワンレン・ボディコンのファッションが流行し始める。

・映画「私をスキーに連れてって」がヒット。スキーブーム最高潮に。

◎1988

・カラオケボックスが流行し始める。

・村上春樹「ノルウェーの森」がベストセラーに。

・ゲーム「ドラゴンクエストⅢ」、徹夜行列ができる大ヒット。

80年代後半 <テレビドラマ>


80年代後半、テレビドラマははじめて、世相を追いかけるのではなく世相を作り出す方に回った、といえる。
ワンレンボディコンファッションや合コン、そういった風俗に彩られた恋愛の形を、時代をリードして作り出した。

「トレンディドラマ」と呼ばれる80年代後半のテレビドラマは、実は作りとしてはリアルであり舞台はほぼ例外なく東京である。
「ありそうなこと」をお洒落に、高い服を着た俳優たちが演じるのがこの手のドラマのミソであった。



■1985 男女七人夏物語 脚本:鎌田敏夫


「トレンディドラマ」の先駆け。
合コンから恋が生まれる、という形の恋愛をお洒落に描いてみせ、合コンというものが世に広がるのに大きく手を貸した。
女性のファッションや登場する場所がデートの参考書として取り上げられるようになったという意味でも先駆。

■1988 君の瞳をタイホする!



刑事ドラマなのに捜査シーンが極端に少なく、美男美女の警察関係者たちのドタバタラブコメディになっている。
美男美女であることをのぞけば「そこらへんにいそうな男女」のドラマであり、けっして訓練を積んだプロフェッショナルのドラマではないところがポイント。
テレビドラマが極端に「トレンディ化」するきっかけとなった作品。

テレビドラマで見る1980年代 総括


◎80年代初頭あたりから、人々は「放浪・下降」への志向を少しずつなくしてゆく。
10年にもおよぶ平穏な社会動向の中で、物事の暗い面、リアルな面ばかりを追いかけ、抽象的なことばかりつぶやく方法論はすでに飽きられていた。

◎そういった意識の変化をもたらした源は、80年代の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という意識であった。戦後日本は成功した、そのことを認めようじゃないか、という意識が 日本人を異様なほどポジティブにした。そしてそれは、カルチャーというものの本来持つ、時代にたいするカウンター機能を麻痺させることになった。

◎70年代に若者たちがあれほど嫌がっていた「大人」「社会人」のイメージが急激に変わっていく。「大人は楽しい」「働く社会人は楽しい」というイメージが、テレビドラマを中心に広がっていった。

◎それは、「社会人」が企業に言われるまま労働してそれなりの安定をもらう立場の者ではなく、豊かな日本社会の「一人前の参加者」としての立場を得る者なのだという意識が広がったからであった。
80年代の日本の繁栄は、実質的な労働環境はほとんど変わってないにも関わらず、「適度に真面目であれば、自分もおいしいとこを取れる、おいしいものを得られる」という幻想をもたせるところまで来た。

◎そういった意識の表れが、一年単位で移り変わってゆくファッションであり、「かわいい女の子」を異様なほど求める身も蓋もないスケベな目線であった。

◎こういった流れの中で、フィクションに求められるものも変わってゆく。
「ロマン」を追い求める終わりのない継ぎ接ぎの物語ではなく、ウェルメイドでわかりやすい、見て読んで気持ちがよく楽しい作品を人は求めるようになる。
そこで語られるものの影にひそんでいたのは「戦後デモクラシー」であった。誰もが自由で平等で、平和を愛しお互いを思いあって生きる世界。それが実現している世界が物語の中で語られ、そのことに違和感が持たれなくなった。

◎クリーミィマミやマジカルエミといったこの時期の魔法少女アニメでは、「大人になること」「働くこと」がポジティブなドリームとして描かれ、そこに「恋されること」「恋が実ること」、そして「スターになること」がついてくる。
この時期のアニメ世界では労働は搾取でも義務でもなく喜びであり、「大人になれば世界が広がり可能性が広がっていく」という幻想がどこまでも信じられていた。



もちろんそれは70年代に完全に成立した企業社会の現実とはかけ離れたもので、そこではパワハラもセクハラも過重労働も過労死も無視されていた。戦後日本は30年以上かけて、「戦後デモクラシー」と現世主義を ファンタジックな形で融合させ、ある種の理想社会の夢想にまで至ったといえる。むろんそれは大部分がただのフィクションであり、そのフィクションの力のもとに、70年代のサブカルチャーが表現していた社会への違和感は隅に追いやられた。
戦後デモクラシーの理想は実現していないのに、あたかも実現したかのように扱われたのである。

◎「大人になることは自由になることだ」「働けばどこまでも豊かになれ夢がかなうしモテる」といった、この時期のフィクションを支える意識は、80年代日本を舞台にしないかぎり成り立たない。
だから、この時期の支配的メディアであったテレビのフィクションには、異世界もファンタジー世界もほとんど出てこない。現代の日本、それもほぼ東京のみである。外国が出てくるとしてもニューヨーク、ロンドン、パリぐらいで、小さな国や中小都市は全くでてこない。


◎トレンディドラマといわれる80年代後半のテレビドラマが、セゾンやパルコといった百貨店、そして電通博報堂などの広告代理店の商品戦略と相乗りしながら作り上げたのは、豊かさをバックにした巨大な錯覚であった。
それは、「日本(東京)にいれば、自分もテレビドラマのような物語を生きられる」という錯覚である。

◎50年代の日本人は日活アクションの中にファンタジーの東京を見たが、それはあくまで現実の東京とはだいぶ違う夢の街であった。
しかし80年代の日本人は、現実の東京とドラマの中の東京をほぼ完全に重ね合わせるところまでいった。そのことが、社会の問題点や暗部を語る、カウンターとしてのカルチャーをほぼ完全に日陰に追いやった。

■1988~ 東海エクスプレスCM


わずか1分の中に、当時の人々が恋愛に求めるものを完璧に表現している。こういうロマンチックさを人々は夢見ていた。
そして、自分にもこういうシーンが訪れるのではないか、という期待が視聴者を動かし、映像に出てくるような服や小物を買う動機になった。


◎戦後の表現史はここに至って、物語中の主人公に惹かれ憧れ、主人公もまた色濃く時代を映して苦悩し葛藤する物語から、「自分にも再現できるもの」として視聴者が物語を受け取るところに来てしまった。
それは80年代後半の過剰さに満ちた世相が生んだマジックだが、それだけではない。

◎社会が極端に現代化し、あらゆる物語が「複製可能」なものになる時代の流れが、80年代の特異なカルチャーを生み出したもうひとつの原因であった。

1980年代のもうひとつの顔 …… 不良化する十代世界


現世的な夢を形にしたようなトレンディドラマの世界と重なり合うようにして、1980年代にはもうひとつの顕著な特徴があった。
それは、中学校や高校の治安が劇的に悪化し、大量の不良少年少女たちが出現したことである。

不良少年を扱うエンターテインメントはそれ以前からかなりあった。たとえば有名な「あしたのジョー」の矢吹丈はもと不良少年である。
しかし矢吹丈のような60年代までの不良少年には、不良になるはっきりしたバックグラウンドがあった。戦災孤児を代表とする、下層社会に生きる子供たちの境遇である。
不良少年は社会が生んだものであり、歴史の悲劇を映す鏡であり、他にやりようがないから不良をやっていたのである。それを、矢吹丈たちははっきり認識していた。

しかし80年代の不良たちは、不良になった理由を語らない。語らないまま大量の不良が生まれ、独自の不良文化を築いていくことになる。
改造制服、極端に走ったヘアスタイル、なによりもまず不良とはファッションであり彼らなりのライフスタイルであった。


80年代を代表する不良漫画「ビー・バップ・ハイスクール」では、不良は楽しそうに不良をやっている。不良でない女の子とお近づきになりたいと願うし、うまくいきかけたりもする。
つまりけっして孤立し不良だけの世界に閉じこもっているわけではなく、ある程度世界に溶け込みながら不良をやっているのである。
にも関わらず、彼らは教育の普通のシステムに決して乗ろうとはしないし、ときに法律を破ることもためらわないし、学校が違うというだけで半殺しの喧嘩をする。

なぜ80年代の不良たちは、自分が不良になった理由を語らないのか。それは、言わなくてもわかるぐらいその理由がありふれているからである。
家族の崩壊、学歴主義、親のネグレクトや過剰介入。80年代の家族と教育のシステムが狂っていることは不良フィクションの世界では前提の事実であり、だからこそ語られないのである。

「戦後デモクラシーは実現している」と語る甘いファンタジーの世界と、戦後が作ってきた身近な家や学校の仕組みが崩壊していることを当たり前に認めるアウトローの世界。
まったく矛盾するふたつの世界が、同時に存在していたのが1980年代という時代であった。




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