ウェブ表現研究D 前半のざっくりまとめ


■戦後日本を作った3つのメンタリティ 「現世主義」「戦前武士道」そして「戦後デモクラシー」

戦後日本人の精神史は、現世主義の浸透とそれへの絶え間ない反発、そして戦後デモクラシーの普及とそれが生み出す正と負の影響、という観点から語ることができる。

■社会へのカウンターとしての若者文化の発生

1960年代の音楽に端を発する「若者文化(サブカルチャー、カウンターカルチャー)」の登場。それはつねに、社会の大勢にたいするレジスタンスという側面を色濃く持つ。

■戦後日本の精神史

40年代 → サバイバルと「新東京の夢」
50年代 → 政治闘争と混乱
60年代 → 経済集中と「焼け跡ドリーム」の終わり
70年代 → 企業社会の完成とそれへの違和感(アンチモダン)
80年代 → 経済成功と純粋現世主義(モテ・恋愛至上主義)
90年代 → 戦後社会の崩壊と「真面目さ」への回帰


「ポストモダン」とは何か


「ポストモダン」とシミュラークル


「ポストモダン」とは何か


現代という時代を、近代が終わった「後」の時代として特徴づけようとする言葉。
各人がそれぞれの趣味を生き、人々に共通する大きな価値観が消失してしまった現代的状況を指す。
現代フランスの哲学者リオタールが著書のなかで用いて、広く知られるようになった。 リオタールによれば、近代においては「人間性と社会とは、理性と学問によって、真理と正義へ向かって進歩していく」 「自由がますます広がり、人々は解放されていく」といった「歴史の大きな物語」が信じられていたが、 情報が世界規模で流通し人々の価値観も多様化した現在、そのような一方向への歴史の進歩を信ずる者はいなくなった、とされる(『ポスト・モダンの条件』1979年)。
(西研 哲学者 / 2007年)

「ポストモダン」的状況の成立時期


日本においてポストモダン的社会状況がいつごろから出来上がってきたのか、には諸説ある。
が、大まかにいえば、70年代末あたりから状況は変わりはじめ、80年代後半に完全にポストモダン的状況になった、と言えそう。

それは、日本(にかぎらず先進国)の社会において、モノの製造業が産業の花形であった時代から、ソフトウェア関連事業・サービス業に
経済の中心が移っていった時期と重なっている。


日本においては、「ポストモダンが始まった」という認識は当初かなり薄かった。これは、当時の日本人の認識の基礎に、近代的理想を背負った「戦後デモクラシー」というものがしみついていたから。
「なんだかんだいって日本人は民主的で平和主義で人権を大事にするからわかりあえる」という共通認識のようものがあり、これがポストモダンのバラバラっぷりを覆い隠していた。
が、それが必ずしも事実でなかったことは、ネット上に中傷や憶測が渦巻く現状を見ればあきらか。

ポストモダンでは全てが記号化=データ化する


1985年頃まで、すなわち私たちが広い意味で「近代」に生きていた頃は、社会に大小様々な「権威」や「固定イメージ」があった。
それは、「科学万能主義」「進歩主義」「労働至上主義」といった大きな枠組みから、小物の価値や冗談のウケかたまで、種々様々なものであった。

たとえば、筆記用具を例に考えてみよう。
明治大正の時代、道具の良し悪しを決めていたのは、「昔からよいとされる生産地で作られた」ことであり「昔からよいとされる職人の作」であることであり、「定評のある店で買った」ことであった。
たとえば「字を書く道具」として、鉛筆やボールペンよりはるかに高級な、トップの地位にいたのは万年筆であった。
そして万年筆の場合、一般に最高といわれるのはドイツのモンブランとペリカン、イギリスのパーカーの「海外万年筆御三家」であり、ドイツかイギリス製でなければ最高の万年筆とはいえないとされていた。
それを、東京でもっとも有名な文具輸入販売店である「丸善」で買うというのが、最高の万年筆の入手法であった。これは確立していて揺るがない「最高」のイメージだった。

80年代なかばからいっせいに揺らぎ始めたのは、こういった「価値の秩序」であった。はたして万年筆というのは最高峰の筆記用具なのか、本音をいえばボールペンのほうが便利なのではないか、欧州製の万年筆はそんなにいいものか、 といった、価値観の揺れが表面化し、みなが信じる「最高のものの物語」は、みなが信じるものではなくなっていった。
これが「ポストモダン」という時代の変化である。

現代においても例にあげたようなクラシックな「逸品」の価値は残っている。根こそぎ破壊されたわけではない。
ただ、それは万人が疑問なく信じるものでは全くなくなった。
何十万もする万年筆より109で買った300円のペンのほうが価値がある、ということも普通にありうるのが現代。
そこで重要になるのが、付加価値、すなわち道具にどういう物語が付与されているかということ。
300円のペンであろうと、誰か有名人が使っていた、ネットで評判になった、限定で手に入りにくい、などという物語が付加され、イメージや幻想が生まれることで入手困難な貴重な道具になる。
逆に私たちは、古い価値秩序に頼れなくなったぶん、なにかしらの「物語」に頼って物事の価値をはかっている。
だからこそ、ポストモダンの時代では大量の「物語」が必要とされるのである。

ポストモダンにおいては全ての物事が記号として扱われデータになる。
記号になるとは、つねに相対的に見られ他のものと並列化されるということである。
それは、「絶対に記号にならないもの」(神聖なもの、測れないもの)が、私たちの世界から消えてしまったからである。
軸になる価値がないから、全ては横並びになる。


物語消費は「シミュラークル」を呼ぶ


シミュラークル(模像)とは、ジャン・ボーリヤールが提唱した概念。

いまさら人に聞けないシミュラークル

ここに書かれているように、ディズニーランドの城は、中世のお城を模しただけの張りぼてであり「偽物」でありながら、人々に親しまれているうちに「ディズニーランドのお城という本物」になってゆく。そして、「ディズニーランドのような街」が現実の街を改造されて作られる。 このように、「架空から作られた偽物」が「現実のモデル」になり、また逆に現実にあるものが「偽物」が作られることで模像化してゆく。こうして全てのものが、現実と虚構、本物と偽物の中間的なものに変わってゆく、というイメージを、ボードリヤールは「シミュラークル」という言葉で表現した。 これこそが、社会全体の大きな物語(=本物)を失ったポストモダンの特徴である、とボードリヤールは言う。

 シンデレラ城のモデル ノイシュヴァンシュタイン城

 シンデレラ城

 シンデレラ城の模倣(中国)


このようなことが起きるのは、ポストモダンにおいては「モノ」「コト」が持っていた社会的に約束された「意味」が希薄になり揺らいでいるため、 本来そのモノゴトが持つ意味から逸脱した記号性を全てのモノやコトが持つようになっているため。
そこでは、人々は「イメージ」に動かされ、勝手にさまざまな物語をモノやコトに与えるようになる。

80年台後半、テレビのトレンディドラマが、現実の人々のファッションや恋愛関係に影響を与えていった経緯は、まさにこのシミュラークルだといえる。
現実のOLはけっして浅野ゆう子ではないが、浅野ゆう子の「イメージ」を背負うことでそういう恋愛ができる、という幻想が生まれた。
ドラマの中で浅野ゆう子が身につけていた服やアクセサリーは、視聴者にとって「浅野ゆう子のイメージ」に近づくためのイメージ演出アイテムであり、だからこそ値段にも品質にも関係なく売れた。
そこでは「モノ」自体ではなく「イメージ」が買われていた。こういったポストモダンならではの現象を、一言で表現するなら「記号化」ということになるだろう。
ポストモダンでは全ての物事が「記号」として扱われ、記号として扱われることで横並びになる。

大塚英志 「物語消費論」


大塚英志 「物語消費論――「ビックリマン」の神話学」1989
◎大塚英志は漫画編集者・漫画原作者

・漫画原作者としての代表作は「多重人格探偵サイコ」

・ロリコン漫画雑誌の編集長をつとめ、オタク系カルチャーの中心にいた。
・筑波大で民俗学を専攻しその方面への造詣が深い。


「物語消費論」


「物語消費論」のメインの題材は、80年代末に爆発的にヒットしたカートつきお菓子「ビックリマンチョコ」。
ビックリマンチョコのおまけカードが、どのような構造をもち、なぜヒットしたかを分析してみせた。

「物語消費論」抄録テキスト

◎読み切りの物語でなく、シリーズものの物語、それも断片的な商品の後ろ側にちらちら見えるような「世界観」を消費者は好むようになった。

◎「世界観」をバックボーンにして、無数に作られる記号的な商品(=「小さな物語」)をどんどん消費してゆくのが現代的な「物語消費」。

◎これは新しいマーケットのあり方、商品展開の新手法、というのに留まらない可能性を秘めている。

◎突き詰めていけば、「世界観」さえあれば消費者も簡単に製作者になれ商品が作れる、オリジナルとフェイクの区別が曖昧な状況が来るのではないか。

◎そもそも「世界観」を共有バックボーンに持つ考え方は日本人にとってはお馴染みで、歌舞伎はまさにそのようにして洗練されてきた。

テキストだけ読めば、「物語消費論」とは、ヒット商品の分析をしながら、「シリーズもの」としてソフトウェアが売れてゆく仕組みを分析し、 「二次創作」がさかんになってゆく90年代以降のカルチャーを予言した論文ということになる。
それは、ソフトウェア開発のニーズが高まりそっち系の就業人口が増えてゆく現代日本で、ソフトウェアを「大量生産」するシステムを示唆し予言していた。

「データベース消費」 …… 物語消費の現在形


データベース消費とは、社会学者・哲学者の東浩紀が、「動物化するポストモダン」(2001)で提唱した、物語消費論を発展させた考え方。

データベース消費-wiki

「物語消費」と「データベース消費」はどこが違うのか


大塚の「物語消費」は、商品として私たちの前に現れる「小さな物語」の後ろに、一貫した体系とストーリーを持つ「大きな物語」を想定していた。
また、その「大きな物語」は製作者が構想し組み立てたもので、そこ緻密な計算があることが前提になっていた。

東の「データベース消費」は、21世紀においては「小さな物語」の後ろにあるのは、製作者が仕組んだ「大きな物語」ではなく、 雑然とした情報が集まった「データベース」になると分析。
そこには緻密な計算などなく、ごちゃごちゃに集積された情報群を、ユーザーが勝手に読みとる形になる、と予言してみせた。

「萌え記号」とインターネット


「デ・ジ・キャラット」(1998)というプロジェクトがあり、それはブロッコリーというキャラクターグッズショップが、自社広報用のキャラクターを作る、という企画からスタートした。が、出来上がったキャラクターたちに人気が出ると、そこに物語があとから付加され、やがてアニメ化され独自の物語世界を作るようになってゆく。
東は、このような展開が、「データベース消費」の典型的な例だと指摘した。そこにはまず「萌え記号」(猫耳、メイド服、リボン、など)というデータがあり、そこから全てが始まり、「大きな物語」は、そのデータを補完するための道具にすぎない、とする。



また、インターネットのあり方は、「データベース消費」と深く結びついている、というのも重要な指摘。
インターネットにおいては、全てを貫く「大きな物語」はあり得ず、どんなものについても異なる見方の異なるテキストが共存しひしめきあっている。インターネットという膨大なデータベースから何を読みとるかは、製作者ではなく視聴者のほうに任せられている。

「小説家になろう」とデータベース消費


現在日本最大のアマチュア小説サイトである「小説家になろう」では、多くのファンタジー系作品が投稿されているが、その多くで、非常に似通った「異世界」が描かれている。

◎異世界の特徴◎

 ・中世ヨーロッパが基本……八割がたの世界ではお城があり西洋風の剣や弓があり、城があって王や皇帝や貴族がいる。
 ・勇者と魔王……多くの世界では勇者と魔王が存在しており、野には魔物や魔獣がうろついている。
 ・魔法……多くの世界では魔法が存在し物語上非常に重要な役目をする。
 ・ギルド……多くの世界では冒険者ギルドという組織があり、主人公はそこで活動する。カウンター前ではチンピラに絡まれ、美人の受付嬢と仲良くなる。
 ・学園……ギルドがない場合は学園があることが多い。多くは王立・国立で、エリートが集まる。主人公はそこに何も知らず入学し異彩をはなつ。
 ・獣人・亜人……多くの異世界には猫、ウサギ、犬、狼などの半獣人がいて、たいていハーレムの一員になるか好敵手になる。

この素晴らしい世界に祝福を


独立して書かれた作品群なのに、そのほとんどに、前提となる共通した「ファンタジー世界」があり、それを使って作品を書くことで、世界観構築の労力を省いている。
また、労力を省くだけでなく、その前提を「ネタ」にすることでギャグやパロディを作り出している。

これは基本的に大塚英志のいう「物語消費」そのものだが、ひとつ違うのは、「公式世界観」のようなものがあるわけではないこと。
なんとなくの「お約束」の集合体から、各作者が自由に使える要素を引っ張り出してきている。
この使い方が、東のいう「データベース消費」そのもの。

80年代後半……トレンディとファミコンRPGが共存していた時代


1988年、ファッショナブルなコメディドラマ「君の瞳をタイホする!」と、シンプルな王道ファンタジーRPG「ドラゴンクエストⅢ」が同じころにヒットした。

前者はバブルに湧く現実の日本を、フィクションによってシミュラークルにしながら「貴方も浅野ゆう子や柳葉敏郎になれる」と思い込ませるポストモダンならではの方法論を実行。 トレンディドラマブーム終了後も、ファッション雑誌や街歩き雑誌などで、同じ手法はずうっと使われ続けた。

後者は「フィクションの見えないお約束をえんえんとみんなで積み上げることで、フィクションの枠組みを相対化するとともに大量生産可能にする」という、 日本文化が昔からやってきたことを現代的にやり直してみせるきっかけを作り、ゲーム文化、ネット文化、そして現代オタクカルチャーに多大な影響を与えた。

いずれにせよ、この時代からフィクションは「現実社会への抵抗や批評」であることより、フィクションとして現実とシミュラークルになれる作品か、 あるいはフィクションとして自立していて再生産可能な要素をたっぷり含んだ作品が評価されるようになってゆく。




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