崩壊の90年代

終わりのはじまり …… バブル崩壊


1985年に始まったバブル経済とは、ひたすら上昇していく日本の地価と株価を担保に、銀行が巨額の融資をすることで事業主が潤沢な資金を持つことができ、それをまた土地や株式に投資することで地価や株価が上がってゆくという仕組みだった。
ところが1990年ごろから地価が下がりはじめると、融資額が担保額より上回る現象(「担保割れ」)が起きるようになり、融資を回収できない可能性に焦った銀行側が強引な回収や融資の引き締めなどを行い、これによってまた地価と株価が下がるという悪循環に陥る。
これが「バブル崩壊」といわれる現象であり、これによって膨れ上がった日本の経済は一気に収縮していった。

バブル崩壊のトリガーが引かれたのは1990年頃と言われるが、日本人が危機意識を共有するようになるのに数年を擁し、その間は「またなんとかなる」という楽観論が大勢を占めていた。このことが、バブルの傷跡をより広げることになった。

1996年頃になると、金融機関の破綻、失業率の急速な上昇、新卒募集の減少、全国的な地価落下など、戦後四十年も続いた経済成長の時期が完全に終わったことは誰の目にも明らかになった。

五十五年体制の終焉


自由民主党が政権を維持し、社会党が野党第一党として対抗する疑似二大政党制を「五十五年体制」と呼ぶが、90年代に入る前後からしだいに自民党は退潮してゆく。その最大の原因は、総理ではなく党幹事長とその周辺が実権を握り政策を裏で決めるという歪んだ体制であり、特に彼ら党重鎮たちの汚職が大問題となった。
1992年、自民党の裏のドンといわれた金丸信が佐川急便汚職で失脚すると、翌年には総選挙で自民党も社会党も敗れるという状況になり、細川連立内閣が成立。五十五年体制は完全に終わりを告げ、自民党の人事に深く関わってきた小沢一郎が自民党を去るなど、政治的に不安定な時期が続いた。
しかし1994年には政治資金規正法の改正が成立、以降同法は細かく改正され続けており、現在、20世紀にあった大規模な汚職は政界からほぼ消えたといっていい。

我らが最悪の年 …… 1995年


■1月17日未明、淡路島北部を震源とする大規模地震が発生。「阪神淡路大震災」と呼ばれる。6434名の犠牲者を出した。



2011年に東日本大震災が起きるまで、犠牲者数で戦後最大の災害であった。
この時に自衛隊の出動命令をためらったとされる当時の村山総理や、惨状の中無神経な報道を続けたとされるマスメディアへの批判が噴出。とくにTBSキャスター筑紫哲也が言った「温泉街に来たようだ」の一言はいまも有名。

■3月20日 地下鉄サリン事件発生。地下鉄丸の内線の車内数カ所で猛毒であるサリンが撒かれ、13名が死亡。負傷者6300名。



オウム真理教は、仏教やヒンズー教のオカルト的部分を寄せ集めたような、典型的なカルト新宗教だった。
そのおもちゃのようなカルトが、ここまで信者を集め過激化したことに人々は衝撃を受けた。

■9月6日 坂本弁護士一家の遺体が発見され、親子三人がオウム真理教によって殺害されていたことが明らかになる。

この事件は、TBSが反オウムの姿勢をとっていた坂本弁護士のインタビュービデオを、ひそかにオウム真理教幹部に見せていたことが明らかになり、さらにそれを国会で否定してしまったため、メディアが殺人事件の原因を作った可能性があるうえそれを隠蔽したとして大問題になった。翌年にはTBS社長の辞任に発展。いまに続く日本人のメディア不信のきっかけのひとつ。

90年代の雰囲気は本当に悪かったのか?


それまで当たり前だと思っていた社会環境がどんどん崩れていった90年代。
ならばその時代を生きる人々の雰囲気は最悪だったのか、というと、実は雰囲気自体はそう暗くなかった。
その理由は、既製のモノづくり経済、不動産経済が崩れたぶんを、ソフトウェア産業の躍進が穴埋めしていたから。

ゲーム業界の急速な発展


ミリオンセラーのゲームソフト一覧

80年代終わりから90年代、ミリオンセラーのゲームソフトが大量に出ていたことがわかる。
ゲーム業界はバブル崩壊と反比例するように好調期を続け、多くのクリエイターがそこに流れ込んでいった。
と同時に、80年代はシティボーイ・シティガールの裏に隠れていた面のある「デジタルキッズ」たちが社会的地位を確立していった時期でもあった。

1995年頃から、任天堂一強であったゲーム業界にソニー(SCE)とセガが「次世代機」をひっさげて殴りこみ。
結果はソニーのプレイステーションが競り勝つ形となり、2000年代前半までソニーの天下が続く。

サクラ大戦


ファイナルファンタジーⅦ


Windows95発売、インターネットの急速な普及


デフォルトでインターネットをサポートする初のOS「Windows95」が発売されると、インターネットはまたたくまに普及し世界を変えていくとともに、巨大なビジネスチャンスを生み出した。
ここにも人が集まり、2000年ごろには「ITバブル」が発生する。

アニメの隆盛


1990 「ふしぎの海のナディア」
1992 「美少女戦士セーラームーン」「クレヨンしんちゃん」
1993 「忍たま乱太郎」「SLUM DUNK」
1994 「機動武闘伝Gガンダム」「魔法陣グルグル」
1995 「新機動戦記ガンダムW」「新世紀エヴァンゲリオン」「天地無用!」「スレイヤーズ」
1996 「こどものおもちゃ」「機動戦艦ナデシコ」「セイバーマリオネットJ」
1997 「勇者王ガオガイガー」「ポケットモンスター(ポケモンショック事件により放送中止)」
1998 「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」「カードキャプターさくら」「serial experiments lain」
1999 「∀ガンダム」「ゾイド -ZOIDS-」「HUNTER×HUNTER」

魔法戦士もの、子供向けギャグ、勇者ロボシリーズ、ガンダム系列、スポーツアニメ、SFアドベンチャーなど、多種多様なアニメがヒットし、現在まで続くアニメ多作時代の幕開けとなった。
なかでも95年のエヴァンゲリオンは「終末の世界」を舞台にしたSF陰謀論アニメで、時代の気分を見事に捉えていた。


新しい倫理を歌う …… 90年代邦楽


90年代はまた、邦楽CDが売れに売れた時代でもあった。

90年代ヒット曲ランキング

90年代邦楽の特徴は二つあり、ひとつは現在まで続く「バンド主体」ということ。作詞作曲演奏を全てバンド内でまかなえるバンドのシステムが確立した。同時に、「テレビでよく聞ける歌が売れる」という、戦後の音楽業界の常識、すなわち「歌謡曲」の優位が崩れたということでもあった。
もうひとつが、歌詞。歌詞に、ストレートで生真面目な「倫理」が歌われるようになり、歌詞は強い訴求力を持つと同時に抽象化していった。

The Blue Hearts


80年代後半にに出現し、強烈なインパクトを与えたのがThe Blue Hearts。
荒々しいパンク・ロックの音と、シンプルで生真面目な倫理を真正面から歌う歌詞の組み合わせは、のちのバンドたちに大きな影響を与える。
後にエモ系と言われるロックバンドなどへとその流れは続いてゆく。(サンボマスター、Eastern Youthなど。)
また、少し遅れて登場したウルフルズなどもブルーハーツ同様、骨太なサウンドと非常にわかりやすく倫理的な歌詞を特徴とした。



情熱の薔薇 歌詞

Eastern Youth 青すぎる空


Mr.Children


内省的で抽象度の高い歌詞で、90年代の人々の意識の転換をいちはやく表現したバンド。
中でも94年の「Tomorrow never knows」は、バブル崩壊後の日本人の意識をそのまま歌っていると言ってもいいレベル。



Tomorrow never knows 歌詞

三角関係の恋愛の歌であると同時に、「何もかもを欲しがっていた」80年代的な欲望と無邪気さを苦く総括する歌であり、「誰も知ることのない明日」を淡々と生きていこうという決意の歌。
これほど時代そのものを内省する歌が生まれたのは1970年以来といってよいが、70年代の歌が持っていたヒロイズムや無頼への欲求はここには見当たらない。
非常に精神的にクールで落ち着いているのが70年代的な歌との大きな違い。

90年代の「言葉の陳腐化」問題


■内省的になる日本人

1990年代にバブル崩壊を迎えたのち、邦楽に顕著に現れているように日本人のメンタリティは急速に内省的・倫理的になっていった。
60年代に本格化した「現世主義」重視の流れは、80年代にピークを迎え、1995年ごろに反転したということができる。
坂口安吾の「いずれ日本人は現世主義に耐えられずに武士道に帰ってくる」という予言は、50年かかってある程度実現したといえるだろう。

ただし、90年代の日本人が、戦前のメンタリティ、すなわち「清らかさ、潔さ、忠実さ」を尊ぶメンタリティにそのまま戻ってきたわけではなかった。
現世主義を奉じて数十年やってきて、滅私奉公を美徳とする世界に全面回帰することはいまさらできない。

■導きの星としての「戦後デモクラシー」

90年代なかば、人々は力強い「倫理」の言葉を求めていた。
だが戦前の倫理に戻り切ることはとうていできず、ポストモダンの到来によって人々の間に共通の認識はどんどん曖昧になっていく時代。
そこで私たち日本人が倫理の下支えとしたのが、戦後日本の三番目のメンタリティ、「戦後デモクラシー」であった。

平和と自由を愛し、大事なことは人任せにせず自分の意見を持ち、周囲にいつも優しく気を配り、どんな境遇の他人も馬鹿にしない。
そんな理想的な「心優しい人たち」が日本人であり、だから日本人であれば幸福に生きられる、というのが、80年代テレビドラマやアニメを覆っていた感覚であった。
みんなが戦後デモクラシーを教わり、みんなが戦後デモクラシーの規範を守る社会は絶対に幸福であるはずだ、という確信。
しかし状況が厳しくなった90年代になると、それがただの思いこみだったことが少しずつ明らかになってくる。
80年代の心優しいことになっていた自分たちがどれほど軽薄でふわふわしていて欲望を勝手に肯定して生きていたかを、人々はしだいに認識していく。
だが人々は、悪かったのは現世主義であり、戦後デモクラシーの倫理規範は相変わらず正しいと考えた。すなわち、戦後デモクラシーの教えを、現世主義に引きずられてつい忘れてしまった自分たち、という認識になった。

たとえば「Tomorrow never knows」はそのあたりの微妙な心情を歌った歌である。
ミスチルの特質は、戦後デモクラシーの持ち込んだ人間像がファンタジーであることを半ば知りながら、それでもなお「戦後デモクラシー」が教えてくれた人間像を実現しようと願うところにある。
戦後的な「心優しさ」を持ち続けようとしながら、その困難を深く自覚している。その葛藤がミスチルの魅力であり、優しさから出られないという意味で限界であるといえる。

■戦後デモクラシーありき、が生む「クリシェ化」」

ミスチルほどの葛藤をもたない多くの表現は、あっさりと「戦後デモクラシーに基づくなんとなくのモラル」を言葉にするようになる。
その中核になる観念は、多くのゲーム・アニメにおいては「正義」「勇気」であり、邦楽においては「優しさ」であり「愛」であり「迷わないこと」であった。

戦後デモクラシー的な心優しい人間、怒らないことを人格の軸にしている人間が耐えきれずに怒るようなこと、それが悪である。そして「平和主義をあえて捨てても」それを倒そうとすることが勇気であり正義である。
最初に正義や悪の定義があり勇気の定義があるわけではない。全ては戦後デモクラシー的人間という理想人を基準にするところから始まるのである。
そこには深い倒錯があるが、当時、多くの人はそれに気づいていなかった。

こうして、90年代後半から、多くのエンターテインメントに、聞きなれた抽象的な観念語があふれることになる。
むろん、「宇宙戦艦ナデシコ」のように、早い段階から「理想的主人公ありき」の正義観や倫理観に違和感を抱きそれをコメディにしていく作品もあったが、それを抑えきれない勢いで「正義」や「愛」を語る作品は溢れた。
また、音楽のジャンルでも「オルタナティブ」の波が、この戦後デモクラシー的価値観の限界と崩壊を表現しはじめていたが、やはり売れたのは小室や浜崎の音楽であった。

具体的・日常的なイメージのない倫理の言葉は急激に抽象化し、「お約束」の言葉になってゆく。
東浩紀の用語で言えば、急激に言葉自体がデータベース化していったといえる。フランスの文学者フローベールはこういう決まり文句化する言葉を「クリシェ(紋切り型の言葉)」と呼んだ。
2000年頃になると、邦楽の歌詞の大半がクリシェの組み合わせになり、同じような歌詞が大量に作られることになってゆく。

■クリシェを生む存在としての小室哲哉


Globe Feel Like Dance

90年代後半の音楽界を支配した小室サウンドの典型といえる一曲。

歌詞

小室の音楽の特徴はなんといってもサウンドにあるが、歌詞の面ではほぼすべてが「クリシェ」でできている。
のちに「J-POPは300の単語で作れる」などといわれるようになる、そのはじまりがここにある。

参考:J-POPジェネレータ

■ポストモダンと「陳腐化問題」

ポストモダンという視点から見れば、この「言葉の陳腐化」もまた一種の「物語消費」であり「データベース消費」であるといえる。
すなわち、歌やゲームの言葉そのものが「見えないデータベース」となっているのである。
不安にかられるほど、人々は「よく知っている概念」「安心して触れることのできる使い古された観念」に頼ろうとする。
そこには「優しさと愛と勇気と正義でできている世界」という「世界観」のデータベースがあり、クリエイターたちはそれを無自覚に利用するようになってゆく。

人々が物語や歌詞に「現在への抵抗感」を求めなくなり、量産されることが前提になってきたとき、物語や歌詞はどうしても陳腐化し強力なパターンをなぞりがちになる。
その傾向が強く現れ始めた最初の時代が90年代後半だった。

そういった陳腐化に対抗する若い表現者たちも多数出現し、「時代が求めるものを供給する」のではなく、「時代そのものを表現する」コンテンツを作り出そうとしていた。
90年代終わりからゼロ年代にかけての「オルタナティブ」なカルチャーがそれにあたる。70年代アングラカルチャーの流れを引き継ぐ、新しい若者文化であった。

余談:80年代シティポップリバイバルと「渋谷系」

80年代音楽(シティポップ)の典型とされる一曲


シティポップを海外アーティストが作り変えたmix(ウェーブパンク)


「日本の黄金時代を象徴する音楽」として、80年代に作られたポップミュージックが、「シティポップ」と呼ばれ海外に多くの愛好者を作っている。
じっさい、山下達郎や大滝詠一を中心に作り上げられてきたこれらのサウンドは非常に上質なもので評価に値するものといえる。

が、じつは、「シティポップ」として現在海外で大人気な曲は、ほとんどが発表時には注目されないか中ヒットで終わった作品ばかりである。
好例がシティ・ポップの代表といえる「Plastic Love」で、地味なアルバム曲にすぎなかった。
もうひとつの代表曲「真夜中のドア」も、ヒット曲ではあるが大ヒット曲とまではいえない。

そしてまた、Plastic Loveも真夜中のドアも、歌詞は「悲恋」を描いた、どちらかといえばネガティブなものである。そこに表現されているのは都会生活のはかなさや虚飾であり、 じっさいに80年代の空気のなかで大ヒットしていたお祭り的な曲、たとえば石井明美の「Cha Cha Cha」などはほとんど注目されていない。

シティポップブームは、「過ぎ去って帰ってこない黄金時代」をイメージの中で作り上げて楽しむ、ある種の仮想80年代のブームであるといえる。

90年代の日本では、この80年代ポップスの流れを引き継ぎ、より現代的な都会の音楽を作ろうとした「渋谷系」というジャンルがゆるやかに成立した。





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