■インターネット以前 1986~1990


1986年 最古の商用パソコン通信サービス「PC-VAN」がサービス開始。

1987年 のちにパソコン通信最大手となる「ニフティサーブ」がサービス開始。
 
1988年 PCゲーム雑誌「LOGiN」が月刊から月二回発行へ。以降、95年ごろまで、大量のおふざけを誌上でやりながら
    多くのPCゲームを紹介し、PCゲーム業界のみならずPC文化そのものを牽引した。
     
 ◎この頃のコンピュータの主流はMS-DOSで動くマシン。PC-9801が圧倒的シェアを持っていたが
 グラフィックに強くゲーム向きのX68000やFMタウンズが注目されはじめていた。


パソコンの歴史1988年

1989年 統計によれば、このころ大手商用ネットでのパソコン通信人口は20万人ほど。
    プラス、草の根BBSの人口が数万人いたと思われる。

1989年 スイスでティム・バーナーズ・リーがWWW(ワールドワイド・ウェブ)の概念を提唱。

1990年 リー、世界初のウェブブラウザとHTLMエディタを作成。

■パソコン通信全盛期 1991~1995


1991年 8/6、リーはWWWの概念を一般公開。この日が現代のインターネットの始まりの日とされる。

1992年 日本でインターネット協会主催の研究会INET'92が開かれる。

 ◎この頃には大学など研究機関限定で、インターネットはかなり普及しはじめていた。
    
1994年 この頃から、基本的に研究用のネットワークだったインターネットの一般利用がはじまった。

1995年 この頃、パソコン通信は最盛期を迎える。PC-VANとニフティサーブの会員数はそれぞれ200万人近くに達した。

1995年 NTT、テレホーダイを開始。23時から翌朝8時までの間、どんなに長時間接続しても課金が定額になるサービス。
    
 ◎このサービスが実はインターネットが普及する大きな要因になった。
 WWWはインタラクティブなシステムなので、まとめてダウンロードするパソ通のやり方がうまくいかず
 通信費用がパソ通より多くかかるのが弱点だった。
 が、それがテレホーダイで解消され、夜23時からの深夜は「テレホタイム」と呼ばれるようになった。
      
 ◎また、長時間つなげるのでサーバに必ずしも高スペックが要求されなくなった。
 そのため、パソコン通信でも個人が管理する草の根BBSの存在価値が高まった。
      
 ◎オンラインの状態を安価で続けられるようになったので、チャットがよく行われるようになった。


1995年 マイクロソフト、新しいOS、Windows95を発売開始。

 ◎コマンド打ち込みが基本だったそれまでのOS(Macintoshのぞく)に比べ
 グラフィカルインターフェースを用いた使いやすいOSで、またたくまに世界中に普及しパソコンOSの標準となった。
      
 ◎発売の翌年のバージョンアップで、インターネット接続機能が標準装備された。
 これにより、インターネット普及に大きく貢献することになった。
      
1995年 インターネット掲示板サイト「あやしいわーるど」始まる。公式には1998年に閉鎖されたが、いまも名を継ぐ掲示板がある。

 ◎95年地下鉄サリン事件をネタにした不謹慎ゲーム「霞ヶ関」を配布するために始めたというアンダーグラウンド掲示板。
 スレッド形式でなく、管理人のことなる掲示板が並列に存在する形式。
     
 ◎日本のアングラネットカルチャーを一時期リードし、2ちゃんねるカルチャーの源流のひとつとなった。
     
 ◎非常に長い歴史を持つと同時に「うかつに近づいてはいけない」という存在で、ネットの裏側として怖がられていた。
 住人たちの多くが、パソコン通信時代から草の根でアングラな話題を語ってきた古参だと思われる。
     
 ◎早い時期に管理人不在となり、「あやしい系」と言われる掲示板サイトが並立する状態に。それも全て閉鎖か過疎化し、いまは見る影もない。

あやしいわーるど@本店退避

■インターネット急普及 1996~1999


1996年 Yahoo!Japanがサービスを開始。

1997年 初のスレッドフロート型掲示板サイト「あめぞう」がサービスを開始。あめぞうはサイト制作者の愛称。

 ◎誰かがある話題について発言をし、それにたいして誰かが発言を返すことで「スレッド」を作る。
 最新の発言のあるスレッドは見やすい一番上に行き、発言のないスレッドは下に沈んでゆくというシステム。
 この形の掲示板をスレッドフロート掲示板という。
2ちゃんねる(現5ちゃんねる)
 
 ◎それまでの掲示板は、一つの場所で多くの人が入り乱れて発言するタイプや
 テーマごとに発言場所が厳密に決まっているタイプが主流。
 あめぞうの掲示板は斬新なアイデアで、のちの電子掲示板に大きな影響を与えた。

1998年 この頃から、「日記サイト」と呼ばれる個人サイトが人気を博しはじめる。

 ◎現在でいうところのブログ。多くの人がホームページを作りはじめる。

 ◎また、「リンクサイト」と呼ばれる、あるタイプのサイトを手作業で集めたサイトに人が集まりはじめる。
    
現存している日記リンクサイト

1999年 東京で、日本初のADSLによる接続サービスが開始される。常時接続を基本とするブロードバンド接続のはじまり。

 ◎ADSLは、それまでの電話線を使いながらデジタルデータを高速大量に流すことができるという新技術。
 2000年代前半に爆発的に使われたが、現在は光ケーブルの普及によって利用者が激減しつつある。
      
 ◎同じころ、ケーブルテレビの映像音声ケーブルにデジタルデータを流す技術も開発され
 CATV局がブロードバンド接続サービスを始める。現在でもサービスを続けている局は多い。
     
 ◎ダイヤルアップ接続と常時接続の一番の違いは、ダイヤルアップ接続は接続時にモデムから独特の音がすること。
 ネットの古参たちは、この音を一番懐かしがる。
      
1999年 電子掲示板「2ちゃんねる」サービス開始。当初は「あめぞう」がアクセス過多になったときのための避難所だった。

■2ちゃんねるとネットのアナザーメディア化 2000~2003


2000年 あめぞう掲示板が荒らしによって壊滅的被害を受ける。

 ◎これによって、2ちゃんねるが実質的な後継者として日本を代表するサイトになってゆく。
     
 ◎また、同年に、2ちゃんねるで犯行予告をした九州バスハイジャック事件(ネオ麦茶事件)が起きた。
 2ちゃんねるは一気に注目を浴び人口が爆発的に増えるとともに、「悪所」というイメージを定着させた。

2000年 この頃にはパソコン通信は本格的に衰退を始める。2000年問題をきっかけに、サービスを停止する草の根BBSも多かった。

2000年 Yahoo!の株価が爆発的高値をつける(ドットコムバブル)。

Yahoo!Japan

  ◎この頃は、ユーザーの多くはポータルサイト(港となるサイト、という意味。  多くの情報やリンクが集まる総合サイトのこと)に長時間滞在していた。MSN、Excite、ライコスなど。
 なかでもYahoo!はトップの位置に君臨していて、Yahooの人気リンクランキングがいまのGoogle的な地位にあった。
     
 ◎また、この年、Yahoo!の検索機能の内部エンジンにGoogleが採用され、Googleが発展するきっかけとなった。
     
ウェブ廃墟を歩く

2001年 「侍魂(サムライスピリッツ)」というテキストサイトが爆発的人気を博す。
    これにより、テキストサイトの大ブームが起き、多くのテキストサイトが出来はじめる。

テキストサイトの歴史

 ◎「テキストサイト」が「日記サイト」と違っていたところは、フォントいじりだけではなく、「怒られるかもしれない本音を書く」ということだった。 テキストサイトと2ちゃんねるの隆盛には同じ原因がある。それは日本のマスメディアや、90年代邦楽が積み重ねてきた、「抽象的な建前の言葉」にたいする不満と反発であった。


参考:吉野家コピペ

2002年 日韓共催サッカーワールドカップが行われた。
    この時の韓国のホストとしての各国への対応、とくに共催国日本に対する対応に国内から多くの批判が出た。
    が、マスメディアはそのことを一切報じようとせず、このことが日本のマスメディアに対する不信を爆発させるきっかけとなった。

 ◎この時、メディア不信に陥った人々が集ったのがインターネットであった。
 この時から、インターネット、とくに2ちゃんねるでは、メディアは信じられないものというのが前提になってゆく。

 ◎この時2ちゃんねるなどに参加していた者たちが、ウェブメディアを作ろうと考え、ウェブニュースサイトなどを立ち上げてゆくことになる。
こうして今に続く、オールドマスメディアとウェブの対立という構図が作られることになった。

初期インターネットは、「若者文化」「カウンターカルチャー」の新しい試みだった


・日本の初期インターネットが、なぜ「アングラ」として立ち上がり、なぜ2chのような罵詈雑言飛び交う場が大人気になったのか。
それは、80年代以降日本でほぼ機能しなくなっていた「若者文化」「カウンターカルチャー」を背負う役割を担っていたからだと考えられる。

・ここまで述べてきたように、80年代の経済的・文化的爛熟によって、時代にたいして抵抗し本音を語る「若者文化」「アングラカルチャー」「カウンターカルチャー」は 一時期ほぼ姿を消した。
90年代のバブル崩壊後、自省と倫理に立ち戻っていく風潮が急速に強まっても、メジャーな歌やゲームにあふれる言葉は、通りいっぺんの決り文句ばかりだった。

・1995年~2005年ごろまでの日本のインターネットは、こういった状態にたいするカウンターとしての若者文化の復興という面を持っている。
そして、それが60年代、70年代のように「政治権力」に向かうのではなく、「第四の権力=マスメディア」にたいする反抗として現れたのが、 ネットカルチャーの大きな特徴であった。

・その反抗は、いつのまにか日本の絶対的な倫理基準になりメディアの基本態度となっていた「戦後デモクラシー」にたいする疑念に、少しずつつながっていった。
たとえば韓国という隣国にたいし「あくまで平和に友好的に微笑んでいよう」というのが戦後デモクラシーの思想でありマスメディアの一貫した主張だが、 それを当時のインターネット民の多くは「実情とは違う建前」「薄っぺらいごまかし」「現実を見ない偽善」と感じた。
戦後日本を陰に陽に支えていた「戦後デモクラシー」にたいするリアルで辛辣な態度を、日本において唯一表に出せるのがネットであった。

・初期ネット民たちは、自分たちを矮小な匿名の「ワイら」「俺ら」と規定した。
自分を大きく見せるのではなく、ネットの隅でアホみたいなことをやっている、引きこもりで無職で どうしようもない存在とみなし、そういった者同士がつるむアホみたいな日常を愛した。
だから彼らはくだらないことや無意味な表現や言葉遊びを好み、建前を語って儲けようとする者を非常に嫌った。



・これは、ターゲットや行動は違っても、70年代のフーテン族やアングラ演劇を支えた若者たちとどこか共通する性向である。
上昇するのではなく、底のほうにいるということに定位置を見出す。

■2ちゃんねる全盛期 2004~2005



2002年 この頃から、Flashを用いた簡易動画が人気を呼ぶ。2002~2005年頃までを「Flash黄金時代」と呼ぶことも。
    ブームの発信地はやはり2ちゃんねるであった。





2004年 テキストサイトは衰退に向かいはじめる。SNSの登場などもあったが、何よりその「フォントいじり芸」が飽きられていた。


2004年 「電車男」のスレッドが2ちゃんねるに立ち、話題になりはじめる。この頃は電車男のような「2ちゃんねるなのにいい話」のブームであった。
証明はされていないものの、電車男含めほぼすべてが創作だったと言われているが、2ちゃんねるのスレッドの中で、リアルタイムに展開されるという点に新しさと面白さがあった。

電車男 スレまとめ

2005年 「電車男」、映画化とテレビドラマ化される。2ちゃんねるの名が高齢者層にまで知られる一つのきっかけとなった。



 ◎「電車男」の主人公は、2ちゃんねる利用者がイメージした「理想の2ちゃんねらー」であったといえる。
彼は冴えない行動範囲の狭い友達の少ない卑小な若者であり、そうあるべきだった。だからこそ「メディアには出てこない、インターネット上でだけ本質を現すリアルな日本人」というネット民の自己意識と重なった。

  ◎「電車男」に端的に現れているように、2ちゃんねるを使う者たちにとって、2ちゃんねるは「スケールの小さい存在」としての自分を許してくれる場所であり、だから多くの者がいりびたった。
当時のネット、なかでも2ちゃんねるは、グローバリズムや戦後デモクラシーの大雑把な建前をはねつける、本質的にローカルな場所だったといえる。

 ◎「電車男」は、そんな存在が、ネットの力に背中を押されて、既存の社会の「上流階級」に手を届かせるシンデレラストーリーだった。ネットの「ローカルでリアルな本音」が現実社会のなかでもなにかの力になる、というドリームがそこにはあった。

 ◎だがそもそも、「スケールの小さな日本人である俺ら」という2ちゃんねらーのイメージそのものがある種の幻想であり仮構だった。
それから八年後の2013年、2ちゃんねるで大規模な個人情報流出事件が起きる。
この時、いかに多くの、社会的地位の高い者たちが2ちゃんねるに参加して「俺ら」のふりをしていたかが明らかになり、人々を驚かせた。

 ◎「アングラな穴蔵に閉じこもる引きこもりのアホな俺ら」という、2ちゃんねらーがまとったセルフイメージそのものが、実は仮想に近かった。
だから、ネットとは遠い「上流階級のお嬢さん」に2ちゃんねらーの手が届く、という電車男の美しい物語自体、設定も筋書きも仮想に仮想を重ねたものであり、なにより実話という体裁そのものが架空だった。
バカバカしいといえば、これほどバカバカしいことはない。
しかしそれでも、「底にいる」という意識、あるいは立ち位置を必要とする人々がいたことは確かであり、それを提供するカルチャーはネットの他にはなかった。
「クソみたいな2ちゃんねらー」というセルフイメージは、若者文化としてのインターネットに参加するためのある種のコスプレであり仮装だったといえる。

 ◎「電車男」が登場する前後から、2chはイメージは悪くても完全にメジャーな場所となる。
それとともに、アングラカルチャー、カウンターカルチャーとしての存在価値はしだいに薄れ、たんにデマが飛び交う場所として負の面だけが増幅してゆくことになる。

■動画で遊ぶ時代 2006~2009


2005年 youtubeがサービス開始。この出来事がインターネットを決定的に変えた。すなわち、情報ソースとして映像をひろく流通できるようになった。

 ◎2006年には、Googleが16億5000万ドルで買収。お互い社運を賭けた買収だったが、結果的にGoogleが業界を支配する決め手となった。

 ◎Googleという見えない権力を持つ検索エンジン企業の力で、著作権問題を提携という形で乗り越えることで、唯一無二の動画サイトとして君臨している。

2006年 日本でニコニコ動画がサービス開始。ただし初期は、youtubeの動画の中に独自の形のコメントが打てるというだけのサービスだった。

 ◎2007年、ニコニコ動画(γ)にバージョンアップした時にyoutubeから遮断され、独自サーバーを持つようになる。

 ◎同時に、idolm@sterと東方プロジェクトの二次創作動画がアップされはじめ、二次創作動画の中心地になってゆく。こういった二次加工動画をMADと呼ぶ。
 
 ◎「元ネタはゲームかアニメ」「音楽に合わせて動く」「意味より動き」というはっきりした特徴。生放送などが始まりネット動画がさらにテレビ化してゆく以前、花形の動画の形であった。一銭のお金にもならないのに凝ったものを作る人を「才能の無駄遣い」と讃え面白がる風潮が強く、インターネットを「遊び場」と捉えていた。



 ◎二次創作がさらに二次創作を生み、ネタそのものがどんどんずれて「一見なんのことかわからない」動画にまでたどり着く。
 その典型が「東方プロジェクト」。シューティングゲームである東方シリーズの登場キャラたちが二次創作によってニコニコで存在感を増し、 どういうきっかけか主要人物の「首だけ」のキャラクターが「ゆっくり」という派生キャラクターとして登場。人工音声をつけられた「ゆっくり」の、原作とほぼ関係ない謎の動画がたくさん作られた。
それらの動画は、予備知識なしで見ると全く意味がわからない。ごく狭い世界の「見えないデータベース」に頼ったコンテンツといえる。



2006年 いっぽう2ちゃんねるでは、この頃から「やる夫」「やらない夫」というアスキーアートキャラクターを用いた、さまざまな解説やショートストーリーがしきりに作られるようになる。
非常にクオリティの高いものが多く、2ちゃんねる文化の最後の輝きといえる存在だった。
これらはYouTubeのゆっくり解説動画などに受け継がれていくとともに、のちに各方面で活躍する人材が育つ舞台となった。

やる夫Wiki

■遅れてきた「グローバリズム」 2010~


ここまで見てきたように、日本のインターネットは、本質的にローカルなメディアとしての色を濃く保ったまま2000年代まで発展してきた。
メジャーなもの、表に出ているものにたいする強烈なカウンターとして支持されてきた部分が大きい。
この傾向は日本だけではないが、日本語という特殊な言語が外国人の参入を阻むことでよりローカルになっていた部分がある。
ローカルであることに存在意義があったからこそ、とくに2ちゃんねるの住民は「ネットでの金儲け」に必要以上に否定的であった。才能は無駄遣いするものだった。

しかし2010年代に入ると、インターネットはようやく、「お金が儲けられる場」になってゆく。ウェブ広告の手法が確立したことが大きい。
また、各種ニュースサイトやまとめサイト、評論サイトも充実しはじめ、言論の場としても質量ともに揃ってくる。
インターネットの世界に、現実世界から数年遅れで「グローバリズム」の波がやってきた。
そのビッグウェーブに乗ろうとする企業家がたくさん現れる反面、あくまでネットをローカルで使いたい者たちは減らず、やがてSNSが、インターネットのメイン用途として浮上してくることになる。



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