イメージについてのおさらい


●イメージとは「頭の中に思い浮かべるもの」のことである。イメージの元になるものが現前にあろうとなかろうと、人がその情報を脳にインプットするときにイメージが発生する。

●イメージは人間の思考の中核であり実体である。私たちの知的活動は全てイメージの想起を介して行なわれている。

●イメージには必ず、物語性を持った情報が付随する。私たちがイメージを想起するとき、同時にそのイメージの持つ物語性に触れている。

●また、イメージの物語性は多くの場合、多くの人の間で共有されている。本講義でいうところの「見えないデータベース」の実質をなすものである。

●イメージが持つ物語性は多くが曖昧だったり整理されていなかったり矛盾を抱えていたりする。私たちはイメージの物語性の、未分化な海の中で生きている。

●しかし人間は古来、イメージの可能性をある程度切り捨てて生きてきた。人間が社会を作り生活するためには、団結の基盤として強い共通のイメージが必要であり、 それを活かすために余計なイメージは無視されてきた。

●だから長い間人類は、社会の暗黙の了解で許されている範囲のイメージしか持たないようにして生きてきた。それは同時に、人々の思考の限界であった。

●そういった「周囲に合ったイメージ」のみの生き方を根本から否定したのが20世紀初頭の芸術運動ダダであり、ダダの影響下でイメージの持つ可能性を広げようとしたのがシュールレアリスムであった。

●シュールレアリスム運動が起きてから60年ほど後、ダダイストやシュールレアリストが抗おうとした「共通イメージを押し付けてくる社会」は、時代の大きな流れとして少しずつ解体に向かっていくことになる。 ポストモダンの到来である。


「アナザー・データベース」を持つことの重要性


●本講義でいう「冒険物語」とはイメージの海の中から選びぬかれた、人間にとってもっとも洗練されたイメージの枠組みである。 冒険物語の後ろには、広大で混沌としたイメージの海がひろがっていることを忘れてはいけない。

●冒険物語という決まった型を持ち整合性を持つ物語の中では、イメージというのは特に固定化されやすい。 物語の舞台は大半が「人間の社会」であり、社会を描写しようとすれば、先に述べた人間社会の持つイメージ制限の影響をもろに受けるからである。

●だからこそ、要所要所にユニークなイメージをちりばめた物語は貴重であるしそれはコンテンツのクオリティに直でつながる。

●では、物語のなかでユニークなイメージを持ち使えるようになるにはどうすればいいのか。答えは「他分野の教養(データベース)を持ちそれを活かすこと」である。

●たとえば料理について詳しい人は、美味なものとその製法をたやすく思い浮かべることができる。裁縫に詳しい人は、衣服や布、そして糸のイメージを豊富に持っている。 エンジンの構造を理解している人は説得力のある乗り物の描写ができる。

●直接的に他分野の教養が作品中に活かせなくてもいい。ちょっと変わったイメージをたくさん貯めていることが、意識せずとも連想となって作品中に生きてくる。 それは物語を作る、ということに限らず、どんなコンテンツを作るときにも役立つだろう。

●作りたいもの(物語、映像、音楽、漫画など)のデータベースを持っていることは大前提。 そのうえで、もういくつか、そのジャンルとは関係のないデータベースを抱えておくことがとても大切である。

イメージと言葉


●私たちの知的活動(イメージ化)の核を作っているのは「言葉」である。私たちは言葉によって考え、言葉によって世界のイメージを構築している。イメージと言葉はいつも表裏一体のものである。

●このことを本格的に論じた初めての人は、19世紀後半から20世紀初頭に活躍したフランスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュール。 彼の「分節」の思想(人が2つのものを別のものとして区別することができるのは、それらに別の言葉を割り当てているからだ、言語が世界の見え方を作っているのだ、という考え方)はやや拡大解釈されながら、 現代記号論につながっていった。

●たとえ言葉が出てこない映像を作る場合でも、その知的活動の中核にあるのは言葉の働きである。 だから、言葉、それもさまざまな使われ方の言葉について興味を持ちデータベースを持つのは、いつでも非常に重要。

物語と詩歌


●イメージはつねに物語性を含む。ということは、イメージの核となる言葉にもつねに物語性が含まれている。 「きつね」「毒」「乱高下」「アイスランド」、いろいろな言葉にはそれぞれ固有の物語性がある。 辞書的な意味や他の言葉とのつながりといったわかりやすいものだけでなく、「ニュアンス」とか「感じ」とか「こんなふうに使うのがいい」とか、そういう匂いのようなものがついている。 それらをまとめて物語性と呼んでいる。

●冒険物語のような、あるいは神話のような強固な枠組みに物語性を組み上げるのではなく、そういった言葉の持つ曖昧な物語性を組み合わせ、響き合わせて 「物語性を強く感じさせる何か」を作るのが「歌」あるいは「詩」である。まとめて詩歌と呼ぶことが多い。

●日本においては、ある時期から詩歌、とくに詩は「難しいもの」「高等なもの」「お上品なもの」「暗くて深刻なもの」というイメージがつき、 物語=小説に比べて読者が少ないジャンルになってしまった。 が、本来の歴史からいえば、物語より詩のほうがとっつきやすくポピュラーなものであった。なんといっても短いから、そして口ずさめるからである。

流れ行く大根の葉の早さかな  高浜虚子

●たとえばこの俳句は、わずかこれだけの言葉の中に、「日本人の多くがなんとなくイメージできる物語性」を仕込んでいる。 増水した川を野菜の葉が流れ去っていく、梅雨時にはよく見かけそうな光景である。情景全体はまったく描いていないのにそういう景色が読者にイメージできるのは、 作者が言葉の持つイメージの物語性をフル稼働させているからである。

●この句は「大根の葉が流れて行く川はどこのなに川で主人公とどう関係しているのか」というような、物語の構造(世界観)につながるような情報は何ひとつ持っていない。 だからこそ、この文字数でイメージを鮮やかに描けるのである。

●しかし、この句が名句として成立するためには、つまり私たちの多くに理解されるためには、私たちに「見えないデータベース」が高度に共有されている必要がある。 たとえば梅雨がなく川もない土地に住んでいる人にはこの句は完全に意味不明だろう。十年に一度しか梅雨や台風が来ないような場所の人にとってもよくわからない句だろう。

運河の岸邊  リンゲルナッツ

包から燻製の鰻がはみ出
水に落ちて南へ流れて行つた
「どうぞお先に!」と運河の岸で
生活に疲れた男が生活に疲れた女に言つた

第一次大戦前後のドイツを描写したこのリンゲルナッツの短詩も、日本人には本当のニュアンスはわからない。

ローカルなものとしての詩歌


●つまり、イメージ=言葉の物語性をこの句のようにフル稼働させると、どうしても読者はローカルになる。時代、人種、地域による理解の限界が生まれ、内輪ウケに近づいていく。これが詩歌の本質的な問題である。

春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空  藤原定家

訳:春の夜の、浮橋のようなはかなく短い夢から目が覚めたとき、山の峰に吹き付けられた横雲が、左右に別れて明け方の空に流れてゆく(のを見た)。

●13世紀のこの歌は、組み合わされたイメージの複雑さと精妙さからいって、シュルレアリスムを通過した現代の詩人から絶賛されるレベルだが、忘れてはいけないのは、おそらく現代の私たちの多くには、この歌の意味は半分がたわからないだろうということ。

●「平安和歌データベース」とでもいうべき、少数の人々によって長い時間をかけて築かれた高度でローカルなデータベースがあり、それにもとづいて作っていたからこそ、新古今の和歌はこれほどの精妙さを持ち得た。が、そのデータベースをいま完全に把握している人間はいない。

●あらゆるコンテンツは時代性の箱の中にある、ということを本講義では最初に述べたが、詩歌はそのなかでも、もっとも時代性、地域性に強く縛られるジャンルである。そして、だからこそ詩歌というのは強いインパクトを持つ。季節限定商品のようなものである。

現代における詩歌


●現代において、古典的な文芸としての詩歌は比較的マイナーな存在になっている。 そこにはいろいろな要因が考えられる。例えば、戦前から戦後の激動の中で、政治思想と結びつく詩歌が増えたこと。また、シュールレアリスムの影響で「わからない」詩歌が増えたこと。

●しかし、「イメージの物語性を強力に組み合わせて、物語になりきらない物語性を表現する」という詩歌の働きが、現在私たちから遠くにあるわけではない。 むしろ、私たちはかつてないほど高度な詩歌的表現を身近に感じている。それは、ボーカロイド世代が作り出す「歌詞」の世界である。

その前に、まずは「昭和」の歌謡の世界に少し触れてみよう。
よこはま たそがれ  五木ひろし


●この歌は、「単語のイメージの物語性」だけを純粋に使って歌詞を作るという当時としては意欲的な試みだが、ここに描き出されたほの暗い情事の光景は、歌謡曲としては非常に型通りの見慣れたものである。
「歌謡曲」が「歌謡曲」である世界、すなわち「夜の街」「情事」の世界があり、全てはその「歌謡曲データベース」の王道から言葉が導き出されている。
1970年代の「歌謡曲」には、はっきりした型があった。物語性として固定されたパターンがあった。

京都慕情 渚ゆうこ(武田かおりカバー)


もとはアメリカのバンド、ベンチャーズのインスト楽曲であるが、日本で歌詞がつくことで完全にムード歌謡となっている。
非常に優れた楽曲でありながら、昭和の歌謡の特徴を完備しているレアな曲。

このような歌謡の世界は、70年代後半の井上陽水、吉田拓郎、荒井由実、中島みゆきなどのニューミュージック、80年代のダンス・ポップによって少しずつ変容していく。
が、日本語の歌の歌詞の世界に劇的な変化がもたらされたのは、21世紀に入ってからのことであった。

シャルル  バルーン


●「シャルル」は、愛し合った結果煮詰まってしまい別れてゆく男女の歌、といちおう読める。 が、この歌の言葉はそういった「恋愛物語」には収斂しない。ここに歌われているのは煮詰まった「気分」であり「感情」であり、その「気分」と、歌い手が住む「街」の情景が重なり合っていく。
単純に恋愛の状況ではなく、単純に行き詰まりの気分でもなく、単純に見下ろした街の光景でもない。
3つの事柄が重ねて表現されるという、高度なことがここでは行われている。
> 歌われている中身に20世紀の音楽(ボーカロイド以前)と大差があるわけではない。が、表現法が決定的に新しいのである。

さよならはあなたから言った
それなのに頬を濡らしてしまうの
そうやって昨日の事も消してしまうなら
もういいよ
笑って

花束を抱えて歩いた 意味もなくただ街を見下ろした
こうやって理想の縁に心を置き去っていく
もういいか

空っぽでいよう それでいつか
深い青で満たしたのならどうだろう
こんな風に悩めるのかな

愛を謳って謳って雲の上
濁りきっては見えないや
嫌嫌
遠く描いてた日々を
語って語って夜の群れ
いがみ合ってきりがないな
否否
笑い合ってさよなら

朝焼けとあなたの溜息 この街は僕等の夢を見てる
今日だって互いの事を忘れていくんだね
ねえ そうでしょ

黙っていよう それでいつか苛まれたとしても
別に良いんだよ こんな憂いも意味があるなら

恋と飾って飾って 静かな方へ
汚れきった言葉を今
今今
「此処には誰もいない」「ええ、そうね」
混ざって混ざって二人の果て
譲り合って何もないな
否否
痛みだって教えて

きっときっとわかっていた
騙し合うなんて馬鹿らしいよな
ずっとずっと迷っていた ほらね
僕等は変われない
そうだろう 互いのせいで今があるのに

愛を謳って謳って雲の上
濁りきっては見えないや
嫌嫌
日に日に増えていた後悔を
語って語って夜の群れ
許し合って意味もないな
否否

愛を謳って謳って雲の上
語って語って夜の群れ

哂い合ってさよなら


深海のリトルクライ sasakureP


●少女の恋とその残酷な結末、そして自立というドラマが、「人魚姫」の物語世界とダブルイメージされながら語られる。
が、けっして「人魚姫」の物語が表に出てくることはない。あくまでも「喩」として使われているのである。

魅せて欲しい 夢の続きまで 世界―
溺れてたの 海よりも深い はじめまして
追いかけて掴んだのは 残酷な二進法
私は歩くわ
振りだした雨よ 止まないで!
恋してたんだ
潰れた声枯らして 愛してますと 叫んだんだ

想えばもう すれ違っていたの 世界―
捻じ曲がっていた 事実も心も 塗りつぶしてさ
無理だと解ってても 無理して笑って
疵ついてしまうの?

伝わらない 現実に ただ幸せだって 強がった
涙止まらないのは 肢が痛い 痛いせいなんだ
落とした ナイフ 私にはもう掴めない
こんな結末 いっそ泡にでも なって
しまえ しまえ!

( ―No!l think that It's jast a small lie… )

言い訳が 欲しかっただけなの
王子様
奇跡も 声も 魔法のキスも
必要なかった―

幸せそうな夢よ 消えないで!
恋してたんだ
泣き虫ノイズなんて 泡にでも なって
しまえ しまえ!

解ったの 私は この肢で立たなくちゃ
恋も 痛みも 全部
受け止めて居たいから

想いよ 届いてよ
物語が終わる前に
想いよ さあ
『愛して』ますと 叫ぶんだ!
想いよ
さあ
『愛して』ますと
叫ぶんだ!
魅せて欲しい 夢の続きまで 世界―
溺れてたの 海よりも深い はじめまして


Official髭男dism - Pretender


君とのラブストーリー
それは予想通り
いざ始まればひとり芝居だ
ずっとそばにいたって
結局ただの観客だ

感情のないアイムソーリー
それはいつも通り
慣れてしまえば悪くはないけど
君とのロマンスは人生柄
続きはしないことを知った

もっと違う設定で もっと違う関係で
出会える世界線 選べたらよかった
もっと違う性格で もっと違う価値観で
愛を伝えられたらいいな そう願っても無駄だから

グッバイ 君の運命のヒトは僕じゃない
辛いけど否めない でも離れ難いのさ
その髪に触れただけで 痛いや いやでも
甘いな いやいや
グッバイ
それじゃ僕にとって君は何?
答えは分からない 分かりたくもないのさ
たったひとつ確かなことがあるとするのならば
「君は綺麗だ」

誰かが偉そうに
語る恋愛の論理
何ひとつとしてピンとこなくて
飛行機の窓から見下ろした
知らない街の夜景みたいだ

もっと違う設定で もっと違う関係で
出会える世界線 選べたらよかった
いたって純な心で 叶った恋を抱きしめて
「好きだ」とか無責任に言えたらいいな
そう願っても虚しいのさ

グッバイ
繋いだ手の向こうにエンドライン
引き伸ばすたびに 疼きだす未来には
君はいない その事実に Cry...
そりゃ苦しいよな

グッバイ
君の運命のヒトは僕じゃない
辛いけど否めない でも離れ難いのさ
その髪に触れただけで 痛いや いやでも 甘いな いやいや
グッバイ
それじゃ僕にとって君は何?
答えは分からない 分かりたくもないのさ
たったひとつ確かなことがあるとするのならば
「君は綺麗だ」

それもこれもロマンスの定めなら 悪くないよな
永遠も約束もないけれど
「とても綺麗だ」



●Pretenderの歌詞はかなり詩的に高度なことをやっている。 一例をあげるなら2番の冒頭、「飛行機の窓から見下ろした/知らない街の夜景/みたいだ」というところ。 歌われているときは、突然出てくる飛行機の窓という言葉がどこにつながるのか戸惑うが、それが「ピンとこない恋愛の論理」の例えだとわかったとたんにイメージが強い物語性を持つ。 喩としてかなりレベルが高い。

●また、「疼きだす未来には/君はいない/その事実に Cry.../そりゃ苦しいよな」の、「そりゃ苦しいよな」は磨き抜かれた表現といえる。 自分のことなのに他人事みたいな言い方を使うことで、「ふっと我に帰って振り返っている」という心境を余計な言葉を使わずに表現できている。 最後にふっと力を抜いて客観視してみせることで悲痛さが際立つ。これは高度な物語性の表し方といえる。

日本の言葉遊び …… 連歌と俳諧


●詩歌が「共有化されたデータベース」を利用しつつ言葉のイメージの物語性を外に出すものだとすると、その「イメージの共有」を積極的に遊びに変えようとする動きは当然でてくる。いわゆる「言葉遊び」である。

●日本において、古く系統だった言葉遊びとして連歌がある。連歌は、三人以上の人間がかわるがわる歌の一部分を詠んでゆく遊び。和歌を詠む歌会の息抜きとして、平安時代にはすでに行われていた。

●しだいに人気ジャンルとなり、庶民の間でも遊ばれるようになる。
そのうち貴族の間でも本格的に流行しはじめ、ルールが厳密に決められる。室町時代の「宗祇」は、連歌を和歌と同レベルの芸術に高めようと「正風連歌」を提唱した。

雪ながらやまもとかすむ夕かな (発句) 宗祇
 行水遠く梅にほふさと (脇句) 肖柏
河かぜに一むらやなぎはるみえて (第三) 宗長
 舟さすおともしるきあけかた (第四) 宗祇
月やなほきり渡る夜に残るらん (第五) 肖柏
 しもおく野はら秋はくれけり  (第六)  宗長
鳴くむしのこころともなく草かれて (第七) 宗祇
(水無瀬三吟百韻)

最初の句は「発句(ほっく)」、いちばん上手なリーダーが詠むもので、季語を入れつつ最後は切れ字(かな、けり、~し、といった言葉)で終わるというのがルール。二番目が「脇句」で、発句の意味に寄りそうように詠み、最後は体言止めがよいとされる。三番目以降からが本番で、発句・脇句から、いかにイメージをずらし転換してゆくか、の腕を競う。この正風連歌では、「情景の視点移動・時間移動」が主になっているのがわかる。

●江戸時代に入るとさらに庶民化し、「俳諧連歌」と呼ばれる、ルールを簡素化した連歌が行われるようになる。のちにただ「俳諧」と呼ばれる。俳諧とは「ちゃんとしてない、気軽なもの」という意味。要するに正式な連歌を詠む前の練習用のスタイルだった。
が、和歌にルーツをもつ従来の連歌では使ってはいけない俗語をどんどん使えるのが魅力で、またたくまに広まった。
中でも滑稽さと連想の自由さを重視し、古典のパロディをどんどん繰り出す西山宗因の談林派が、爆発的な人気を得た。井原西鶴も談林派の一員だった。

●談林派はまたたくまに天下をとったが、またたくまに過激化して、意味がわからない連歌を猛スピードで詠むというような傾向が強まった。
そこに登場したのが談林派出身の松尾芭蕉で、庶民的な言葉を使いつつ正風連歌に近い叙情と、「におい付け」といわれる、句と句の連想関係を薄くして飛躍的な転回をゆるす教えで、俳諧を芸術の地位にまで高めた。
ただし芭蕉の高踏的な教えについていけない人たちも相当いて、彼らは談林派の流れを汲みつつ「雑俳(川柳)」へと流れていった。

炭売のをのがつまこそ黒からめ 重五
 人の粧ひを鏡磨寒 荷兮
花棘馬骨の霜に咲かへり 杜国
 鶴見るまどの月かすかなり 野水
かぜ吹ぬ秋の日瓶に酒なき日 芭蕉
 萩織るかさを市に振する 羽笠
(芭蕉七部集 冬の日)

現代の言葉遊びと自動生成


ノムリッシュ翻訳

●ファイナルファンタジーシリーズの世界観(を大げさにしたもの)をもとに、文章を改造してしまうサイト。
多くの参加者がワード登録することで充実度を増してきた。現代ネット言葉遊びの傑作のひとつ。

診断メーカー

●参加者が自由に作れる創作型の自動生成言葉遊びサイト。機能がシンプルなぶん敷居が低い。

てきとうパパ

●Wikipediaデータベースを使って適当な説明を自動生成する実験的ジョークアプリ。



●ネットにおける言葉遊びは、「自動生成(自立生成)」ができるようになったことで、シュルレアリスムの求めた「偶然のきっかけ」を手軽に作れるようになった。が、現在、言葉を自立生成で紡ぐ試みはマイナー化しており、物語の自立生成も本格的なトライは少ない。

●わかってきたのは、言葉遊びのうしろに「人間」が介在しないと、言葉遊びは結局つまらないということ。 イメージの自由度は無限といっていいが、それが人間にとって意味を持つのはごく狭い領域である。

シュルレアリスムと俳諧の融合、のようなもの …… 日本現代詩の形


吉岡実「螺旋形」

言葉を連歌のように瞬間的な連想と奇想でつなぎながら、背景に何か複雑で幻想的な世界観を感じさせる。

藤井貞和「朝潮の力」

やはり言葉が連想で書かれていくうち、一種の悲しい物語らしきものが成立してゆく。

ちなみにこの詩でいうところの「朝潮」は、大相撲の横綱、朝潮太郎(三代目)のこと。
おそらく朝潮という言葉の響きと、奈良と思われる古墳のイメージだけからこの詩は作られている。


また、詩の中に出てくる「にぬりや」とは「丹塗り矢」のことで、神が赤い矢に姿を変えて見初めた女性のもとへ飛んで行くという古事記の逸話がある。





inserted by FC2 system