テレビと「メディアペルソナ」

「ペルソナ」とは


ペルソナとは仮面という意味。心理学においては、人格がかぶる「外向けの性格づけ」というような意味を持つ。カール・グスタフ・ユングが提唱した概念である。

ユング心理学では、人の心の奥底にあるものは未分化で混沌とした欲望やコンプレックスの塊である。
そういった心をむき出しにして社会の中で生活していくことは難しいので、人はさまざまな状況や場面に合わせて「人としての顔」としてペルソナをかぶり、 ある種の「個性」や「キャラクター」を表に出してゆく。一度きりの覚醒をするようなものではなく、日々の中で安定してかぶり役割を果たすような「外向け人格」がペルソナである。
たとえば多くの人が、仕事やアルバイトをするときには普段と違う人格や態度、つまりペルソナを用いている。

メディアが作り出すペルソナ「メディアペルソナ」


外向けの(比較的安定した)人格を作る、ということを、きわめて意識的に行っているのが芸能界であり、そのメインの舞台であるテレビである。

テレビのひな壇芸人やコメンテーター、司会者などは、自らがテレビを通してどう見えるかを計算して、テレビ用ペルソナを作り上げている。 周囲のスタッフもそのペルソナを作るために知恵を出し努力している。
こういった、テレビなどのメディア上で人が振る舞うときに生まれるペルソナを「メディアペルソナ」と呼ぶ。

テレビに出てくる人間はほぼ例外なく、多くの人が共同で作り出したメディアペルソナを視聴者に見せているのであって、 素でしゃべっているようにみえるコメンテーターやアナウンサーも、実際のところはペルソナをかぶりそのペルソナにそった発言をしている。

もし、テレビに出ている人が全くの素人でペルソナをかぶる気もかぶる技術もない場合は、たいてい編集もしくは司会者の誘導によってペルソナがあるかのように演出される。つまり「わかりやすく」される。

なぜそうするかというと、視聴者が求めているのはその人の人格そのものではないからである。
素の人格としての人間をここでは「パーソン」と呼ぶことにする。パーソンは例外なく矛盾に満ち全体が捉え難く、少なからず混乱しており人になかなか言えないささいな秘密を無数に隠しているものである。

私たちがメディアを通して見たいのはあくまで「ペルソナ」であってパーソンではない。
これは昔からそうであって、古来芸能のスターというものは「ペルソナ」をかぶり続けることを求められてきた。 そのことによってスターはスターでありつづけられた。
パーソンを隠すことが主軸なのではなく、ペルソナをかぶることが重要なのである。 高田純次は高田純次ペルソナをかぶることで高田純次になる。高田純次の個人としてのパーソンがどうであろうとそれはテレビ的には重要ではないし、 実は真面目だという噂が流れてもそれはペルソナを塗り替えたりはしない。

テレビというメディアが安定した視聴率を実現してきた理由はいくつもあるが、そのひとつが「安定したペルソナの供給」。
すなわち、毎日いつでもテレビ向けペルソナ、つまり「おもしろい人」を見られることがテレビというメディアの独自性であり強みである。

Youtuberとは「手軽になれるメディアペルソナ装着者」である

「メディアペルソナ」はテレビに出なくても作れるという発見


一昔前まで、メディアペルソナはテレビに出る資格を持ったごく少数のプロだけが駆使するものであった。
それを象徴するのが「芸能界」という言葉で、メディアペルソナを使う者になるということは芸能界もしくはテレビ界に入ることであり、 そのためには登竜門といわれるコンテストやスカウト、あるいはテレビ局への就職試験を通る必要があった。
いわばメディアペルソナの作り方、装着法を業界の秘伝扱いにし寡占とすることで、テレビの世界は独自の領土を築いていたといえる。

しかしメディア向けの外向けの顔を考えそれをかぶることは、テレビの世界に入らなくてもできる。吉本に入らなくても漫才はできるのと同じである。
ポストモダンの時代が来ると人々はそれに気づくようになり、インターネットの普及がその気づきに形を与えた。
インターネットを利用して、個人としてメディアペルソナを作ろうという試みがなされるようになった。

「生主」はメディアペルソナの初期訓練


ただし、それ用のノウハウが蓄積されていない状況では、いきなりメディアペルソナを作りそれを他者に供給せよといっても難しい。
そこで初期に試行錯誤を始めたのが、「ニコニコ生放送」をはじめとする配信メディアを使った「生放送主」、略称「生主」であった。

ゲーム実況や雑談などでとりとめなくトークしつづける「生主」は、YouTuberやVtuberの源流にあたる存在といえる。
そこはマイクひとつあれば実施できる手軽なメディアペルソナの訓練場であり、 メディアペルソナを作った経験のない者がパーソンから一歩だけ踏み出す形でペルソナを作りエンターテインメントを提供しようとする場であった。

たとえ内容がどんなに拙くても、メディアペルソナという観点から見れば、ネット生放送というのはテレビの領域に芸能界以外の人間が初めて踏み入った革命的な仕組みであり行為だったといえる。

が、「生主」の問題は、自分たちがメディアペルソナを作り出しまた受容しているということにほぼ無自覚だった点にあった。
この界隈の感覚では、「ペルソナを作っている」ことにはどちらかといえばネガティブな反応が多く、 「萌え声生主」といわれるかわいい声を作った配信などには「わざとらしい」「キモい」などのコメントがつくことが多かった。 パーソンそのままを求める声が届くのに、実のところはメディアペルソナが求められている、という矛盾した状況が続き、結局人気者になったのは、パーソンそのものが特異な「天然もの」ばかりとなった。

生主が配信でお金を得ることに異様なほど批判が多かったのも、メディアペルソナを作るという意識が低く、 生主はみなパーソンをさらけ出す、あるいはごまかすことで金を稼ごうとしている、という認識が広くなされていたからだと思われる。




ヒカキンの成功の秘密はメディアペルソナの作り方にあり


生主たちの「ペルソナ意識の低さ」を打ち破って、驚異的な成功をおさめたのがYouTuberと呼ばれるYouTubeを舞台とする配信者、なかでもヒカキンであった。

日本で爆発的な成功をおさめある種の「ネットスター」となったヒカキンは、なぜ成功をおさめたのか。その理由のひとつとして、メディアペルソナをかぶることにきわめて自覚的だったことが挙げられる。



動画の中のヒカキンは、どの瞬間を見ても「ヒカキン」というペルソナを明確に演じている。
大げさな表情と独特の身振り、数秒に一度は必ず笑顔を見せる。それも、ペルソナをかぶっていることが視聴者に明らかに読み取れるように振る舞っている。
これは生主と生主界隈の、パーソンを曖昧に引きずった態度とは一線を画すものであった。
主戦場を「動画」に置いたことも大きい。動画は編集可能であるため、ヒカキンのペルソナがペルソナらしい瞬間だけをつないでゆくことができる。
どうしてもパーソンに引っ張られる生放送では実現できない純度を実現できた。
メディアペルソナを作る行為を意識的に行ったことで、ヒカキンの動画は「濃縮度が高い」「安定してクオリティが高い」「素人っぽくない」印象を作り出すことに成功し、 生主界隈の曖昧なマイナーさから完全に抜け出した。

ヒカキンのあからさまで明確なメディアペルソナのかぶり方は、ある意味古典的な芸能人に非常に近い。芸人ライクである、といってもいい。
そういう意味ではテレビとかぶる部分があるのだが、タイムスケジュールが決まっているテレビと比べ、いつでも見られ毎日投稿されていくヒカキン動画は、その見やすさにおいて圧倒的なアドバンテージがあった。 とくに子供にとっては。

現在にいたるまで、ヒカキンほどメディアペルソナの意識を高いレベルで、しかも単独で保持しつづけているYouTuberは他にほぼいない。
それゆえ「YouTuber界の聖人」と言われたりもしているが、それはあくまでも「20世紀末のNHK教育に出られるようなYouTuber」という枠組から出ない、ということでもある。

ヒカキンが持っているメディアペルソナの質、そして彼が表現している「日常」の質は、かなり古典的なものであり、ちょうど2000年ごろの質感のままである。
それをキープし続ける意志の強さとストイックさ、そしてある種のスタティックさは、現在もなお際立っている。

「日常という物語」とメディア

テレビの強みは「日常的」であることにある


テレビという、1970年ごろから日本でもっともポピュラーになったメディアの最大の特徴は、365日ずっと放送されていることである。
日常の中に浸透し、いつでも身近にありいつでも見られるメディアだからこそ人気があり、またそこに登場する芸能人も安定した、壊れないメディアペルソナをかぶることが求められてきた。
「サザエさん」や「ドラえもん」がテレビの中で終わりのない日常をずっと展開していられるのも、それがテレビの持つ特質であり最大の武器だからである。
そしてYouTuberたちの活動が「テレビ的」であるのも、「日常」と付き合わざるをえない性質を共有しているからだといえる。

テレビのなかの「日常」の歴史


歴史的に見るならば、「ずっと続く平凡な日常」はテレビの土台ではあるが、人気テーマではなかった。
とくに70年代、若者は平坦な日常を明確に拒否する傾向が強かった。だから若者たちは頻繁に旅に出ていたし旅にあこがれていた。
また80年代においても、求められていたのはおしゃれでキラキラしたドラマ性であって、買い物をして料理をしてお風呂に入るなにげない日常はテレビの中ではほぼ求められていなかった。
求められていたのは永遠に続くパーティーであり、美しくリッチな異性との終わらない恋愛ゲームであった。それはドラマのなかでは日常とされながら、普通の市民の日常ではなかった。
「サザエさん」「ドラえもん」「時代劇」「朝ドラ」などの日常コンテンツを土台にしながら、その上に「非日常な日常」を積み重ねていくスタイルでテレビは重層的な魅力を持ち、覇権を握っていたといえる。
いわば「毎日がハレの日」「毎日が日曜日」であるかのような錯覚を呼び起こすことで、テレビはテレビ的日常を演出していた。

それが21世紀に入る頃から、世相は少しずつ変わっていく。理由は言うまでもなく経済の長期低迷である。

世相の変化にあわせて、テレビというコンテンツは少しずつ、より身近な日常へと接近していく。街紹介番組やグルメコンテンツなど、私たち視聴者の日常を「価値のあるもの」「お宝が転がっているもの」と捉えることに力を入れ始めた。



それは私たちの日常そのものを、ドラマ性をほとんど介さずに「物語」として扱い付加価値をつけていく行為だといえる。
「キラキラする恋」や「お金と知名度」に重きをおいていた20世紀との大きな違いである。
テレビにおける「ひな壇芸人」の役割が近年拡大し続けているのも、こういった「日常を彩るもの」という位置づけに一番ふさわしい、小さな笑いを提供できる存在だからであろう。

日常アニメに見る「フィクショナルな日常」


「ずっと続く平凡な日常」をそのままフィクション化してコンテンツにするという志向を、より強力にコンテンツにしようとしたのが、日常をまるごとフィクションに仕立てていく試みである。
そういった試みの舞台となったのは漫画とアニメであった。
嚆矢とされるのは、1999年に連載開始された、あずまきよひこ「あずまんが大王」。

あずまきよひこはその後、日常系漫画のトップランナーとして「よつばと!」を生み出すことになる。

注意したいのは、日常系漫画・アニメは素の日常を飾らず描くというコンテンツではなかったことである。
一部の作品は、男性を画面に映すことすらせず、世界には女の子しかいないような描き方をしている。 男性という「つまらない」要素をカットすることで、日常を面白く見せているのである。そこには日常をフィクションに仕立てる、あるいは素の日常とフィクションを混淆させる高度な作為がある。

リアルとフィクションを自然な形で混ぜていくこの手法が、80年代なかばからのポストモダンの流れの中で生まれてきたことはこれまでに何度も指摘してきた。
Wikipedia-空気系

が、日常の光景とフィクションを混ぜていく日常マンガや日常アニメは、ひとつ大きな問題点を抱えている。
制作に大きな手間とコストを要するということである。だから「のんのんびより」も「ゆるキャン」も続編がなかなか出ず、日常マンガの頂点である「よつばと!」は1巻ぶん描かれるのに何年もかかっている。
日常をフィクショナルに扱い、見て飽きない表現に仕上げるということはそれほど大変なことなのである。

「サザエさん」「ドラえもん」「クレヨンしんちゃん」などの作品は、「フォーマットがある程度固定されている」「天才的作者が描いている」「アニメ化には多大な費用と人数をかけることができる」といった条件が揃っていたから、あれほどの頻度で制作が続いたにすぎない。

YouTuberとテレビの微妙な関係


現在、YouTuberの作る動画は、「いつでも見られる」「何度でも見られる」「短い時間で見られる」という3つの点でテレビにたいしアドバンテージを持っている。
また、「無数の動画から見たいものを探せる」という点も、チャンネル数が決まっているテレビと異なる点である。
しかし逆にいうと、ヒカキンに代表される古典的YouTuberのコンテンツは、「メディアとしての性能」以外のポイントではテレビと根本的に異なるところはほぼない。
テレビであまり取り上げない「ゲーム」や「玩具」について詳しく語っている、という点ぐらいである。
日常的な出来事やグッズの取り上げ方は、テレビの取り上げ方とほぼ変わらない。
本講義にのっとった言い方をするなら、少なくとも現在は、YouTuberが土台としている「見えないデータベース」は大半がテレビのものである。

極端な言い方をするなら、ヒカキンが歩んでいる道は本質的には古典的なタレントの道であり、ヒカキンの模倣者たちがたどり着くのは「野にいるタレント」である。
それは、メディアペルソナの作り方自体には特別新しい面がなく、テレビが作ってきたカルチャーをそのまま踏襲しているからである。

しかしYouTuberの世界が盛り上がるにつれ、こういったテレビカルチャーを継承するヒカキン的YouTuber像から、少しずつ離れる試みがされてきているのも確かである。
たとえばここでは「ヒカル」を取り上げてみたい。



これは2022年7月の最新動画。シバター、ラファエルと博多で飲み食いしながらひたすら雑談するだけの1時間動画。
これは「芸人のオフ動画」である。そういう意味ではテレビでもさんざんやられている試みであり、別に目新しいことはない。
が、こういった動画を出す意味というのは、「メディアペルソナをつけかえるところを見せる」ということにある。ヒカルはメディアペルソナをつけかえる現場、つまりふたつの顔を使い分けることを公開するYouTuberなのである。

語られている内容は、かなりあからさまに「ファンビジネス」について語ったり、テレビ芸人への対抗心を露わにしている。これは、テレビ芸人ですらはっきり語れないことであるが、そこに踏み込むことでYouTuberの優位性を作ろうとしている。

要するに、ヒカルは「YouTuberとして成功してビッグになる物語」、その素の現場を見せます、と言っているのである。そこに、吉本に入社し修行しテレビに出ていくテレビ芸人とは違う、メディア的成功のコースを描いているのだ。

この背景にあるのは、「成り上がる物語」である。



矢沢永吉、不良マンガ、ヒップホップカルチャーと続く、「悪ガキが強い意志と魅力で成り上がる物語」は、つねにテレビの裏側にありテレビの手が届かない領域であった。
実際、アメリカのラップカルチャーは完全にスラム街の子供が成功し同時にドラッグにまみれていく物語を繰り返し演じているが、その影響をダイレクトに受けながら日本ではちょっと違う形が出てきている。
その典型がこの「BAD HOP」で、彼らはスラム街育ちでもなく悪ガキですらない。川崎の保育園で知り合った幼なじみのグループである。レコード会社には属していないが、YouTubeで1000万再生を連発する大物ラッパーグループである。
これが現代における「成り上がり」の物語の新しいカタチのひとつといえよう。彼らは矢吹丈でも矢沢永吉でもなく、普通の育ちでありながらタトゥーを入れ、悪そうな雰囲気を出しながらあんまり悪くないことを歌う。



YouTuberがテレビの影響から出ようとするとき、こういった、変化しつつある「成り上がりの物語」を意識するのは必然である。ヒカルをはじめとした、ある種のYouTuberはそれを正面から演じようとしているのだといえるかもしれない。
テレビの大物芸人と絡みながら対抗心を露わにしていく構造は、おそらく本心であると同時に「こいつそういうステージにいるのか」と思わせる仕掛けである。

このようにして「YouTuberが伝える日常のコンテンツ」を「成り上がりつつある大物の日常コンテンツ」に変えていくのも、日常をドラマチックにフィクショナルにしていく手法なのだ。
ヒカルやハジメ社長がしばしばバカみたいな大金を使ってみせるのも、「成り上がりの物語」の定型を演出するためだと思われる。
が、むろん、ペルソナを人前で付け替え、自らに成功者という枷をはめ、本音と建前を使い分けるスタイルは非常に炎上しやすい。「炎上軍」と名乗っているのは、そのことを自覚しているからだろう。

一方、YouTubeの動画カルチャーのうち真に貴重なのは、ペルソナにあまりこだわりがない、顔出しをする気もない教養系・紹介系の動画かもしれない。が、これらが趣味の動画という域を超え、労力にみあう利益が得られる仕事になっているかどうかは疑問が残る。







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