「因果応報」と「正義」のあいだに炎上の深い闇がある


現在、私たちの社会感情に「因果応報」を求める部分が強まっていることはすでに述べた。

「因果応報」とは、悪は確実に裁かれ善は確実に報いられること。そういうことが実現してほしい、という気持ちが私たちの心の中に存在していて、それは現代において無視できないほど強くなってきている。
この因果応報への欲求こそが、現在私たちのまわりで毎日のように「炎上」が起きている、その大元である。
そのさらに奥にあるのは、確固たる価値観を世界全体で共有できないことから来る不安感である。

炎上を煽る者たちの多くは、悪いことをしているとあまり思っていない。なぜなら、彼らは「因果応報がちゃんと働く」ようにすることで、社会に貢献していると考えているからである。
日本に限らず、現代の法というものは、因果応報を実現するため作られているのではない。あくまで社会全体の秩序を支えることが目的であり、 犯罪を定め犯罪者を隔離するのは社会の不安定化を防ぐためである。
だからこそ、「因果応報を非公式に実現する私刑の執行人」が生まれてしまう。実のところこれは、近代以降ずっと存在してきた欲求でありダークヒーロー像である。
ネットに罵倒を書き込み炎上に手を貸す者の多くが、こういったダークヒーローめいた気持ちを少しだけ抱いている。

ならば、「炎上」というのは悪いものではなく、社会の健全な自浄作用なのか。
もしも、「悪」と「善」が疑問の余地なく決まっていて、「人道にもとる」行為というのが万人に共有されているならば、そう言えなくもないかもしれない。
が、実際には、むしろ私たちの間で「善」や「悪」の定義は大きくずれてバラバラになってきている。

現代において、なにが善でなにが悪なのか。なにが正義でなにが人道にもとる邪悪なのか。それは万人で共有できないのか。
結局のところ、問題はそこにたどり着く。 そしてそこが解決できないからこそ、炎上というものは後味悪く、あとに多くの泣き寝入りする人間を残すのである。

今回は「正義」の問題を、アメリカ社会思想の流れを紹介しつつ考えてみる。

「自由」と「正義」のあいだ ……現代アメリカ社会思想を整理する




前提:アメリカは、2つの異なる意味で「自由の国」である


アメリカの現代社会思想の基本は、「個人の自由がなにより大切」ということ。しかしその内実は、そうかんたんではない。
「個人が自由にいろいろやっても許される」ということと、「正義が守られる(悪いことをしたら裁かれる)」ということは根本的に背反するからである。
「個人が自由にやって許される範囲」というものは必ずどこかで規定される必要がでてくる。

そもそも「自由の尊重」は、実はアメリカの歴史の中で最初から最重要視されてきたわけではなく、アメリカ人全員が心からそれを大切にしてきたわけでもない。
たとえば1850年の有名な小説「緋文字」(ホーソーン)は、ピューリタンの厳しい掟のもと、愛ゆえの過ちを許されず追い詰められていく女性の悲劇を描いている。
そしてなによりも、人から完全に自由を奪う奴隷制を長く採用していた国でもある。
現在でも、聖書に書かれていることを完全に信じ、それにそむくような人の自由を全く認めない人たちがアメリカ各所に存在している。

ただし一方、アメリカ人の多くは、不自由なヨーロッパから逃げ自由を求めて海を渡った人たちでもあった。
そういった人たちの「自由」とは、文字通り「法も掟も俺らが実力で決める」というものであった。
彼らの価値観がよくわかるのが西部劇で、法の執行者は「保安官」であるが、より上の権威に守られているわけでもなく、結局のところ弱ければ殺されるししばしば悪党と癒着している。
19世紀アメリカの開拓者たちの「自由」とは、「殺されるのも自由のうち」というワイルドな、どこまでも個人重視の自由である。
国家や行政を信用せず、あくまで個人として生き、力尽きれば個人として死ぬ。そういう生き方を良しとする人々の考える自由。
これを「本来のリベラリズム」、現在では古典的自由主義と呼ぶことが多い。

20世紀、奴隷制を廃止したアメリカの進歩的な人たちは、自らの過去を償うかのように、社会的な「自由」「人権」をなにより尊重しはじめる。この考え方は終戦後の日本にも導入され「戦後デモクラシー」を形作った。
いっぽう、同じ自由といいながら考え方は全くちがう、アメリカ開拓民の底抜けでしばしばアウトローな「自由」観もまた、脈々と受け継がれてきた。
このふたつの異なる「自由」観が、アメリカの社会思想の基本を作り、政治的な対立の構図も作っている。
極端に構図化していえば、前者の自由を掲げるのが民主党であり、後者の自由を掲げるのが共和党といえる。(あくまで極端な構図化でありじっさいはそう単純ではない。)

歴史:アメリカを変えた政策「ニューディール」


1933年、世界大恐慌からアメリカ人の生活を守るため、フランクリン・ルーズベルト大統領がはじめた政策。
その基礎になっているのは経済学者ケインズの思想である。

・市場に国が介入することによって経済破綻を防ぐ
・公共投資を積極的に行い雇用を作り出す
・労働者や社会的弱者への社会保障をどんどん行う

いままでアメリカの政策は伝統的に「国は最小限のことしかしない」「あとは州ごとの自治や個人の裁量にまかせる」というものだった。つまり、古典的自由主義が考え方の大勢を占めていた。
それを一気に変えたことで限定的とはいえ経済を立て直したのがニューディール。しかしそれは「左傾化」「社会主義化」の批判も招いた。
なにより、「大きな政府」を志向したことで国家財政は急激に悪化していった。

以降、このニューディールへの賛否がアメリカの政治思想を二分することになる。
ニューディール的政策をめざす「民主党」と、反ニューディールの「共和党」である。
ニューディール以降、アメリカの進歩的な人たちは、ニューディール的な発想のもと「社会全体の自由」を目指すようになる。これがアメリカンリベラリズムである。

社会全体で作る「自由」と「平等」:アメリカンリベラリズム


リベラルやリベラリズムといった言葉は非常に定義が難しい。なぜなら使われる地域ごと、時代ごとに意味が違うからである。
現代アメリカの、政治思想としての「リベラリズム」とは、「自由」と「平等・公正・弱者救済」を両立させることを目指す、ニューディールの伝統を受け継ぐ思想である。 代表的論者としてジョン・ロールズなどがいる。

まず人間は誰もが「自由な個人」であり、各人の価値観とそれに基づく行動は尊重されるべきである、という点ではリバタリアンと共通している。
が、そのうえで、自由な個人が社会を形成するなかでどうしても起きる格差、差別、抑圧などのマイナス面を、国家や共同体が積極的に介入して軽減しようとするのがアメリカンリベラリズムである。
古典的自由主義が「国家、共同体からの自由」であるとすれば、アメリカンリベラリズムは「国家、共同体による自由」である、といわれることもある。 自由主義であると同時に社会主義的でもあり、社会の問題、とくに社会保障と個人の「自由」の問題を社会全体で解決しようとする考え方である。

この現代アメリカンリベラリズムは、戦後の世界をいちど席巻した思想といえる。
日本の戦後は基本的にこの線で動き、いまも日本で「リベラル」というのはこの考え方を持つ人たちのことを指す。
ヨーロッパは独自の思想史を持っているとはいえ、現在のEUの思想の基礎になっているのもほぼこの考え方(社会自由主義)である。

なかでもアメリカンリベラリズムに大きな影響を残したのはジョン・ロールズの「正義論」(1971)であった。 ロールズは、各自の価値観や社会状況によって違う「善」よりも優先される、人類の基本的規律「正義」があるという。その正義は、生まれ育ちに関係なく万人に適用されるものである。
「善」をつくる方法も、善の形もいろいろなものがありうるが、それよりも優先され、社会(共同体)によってきちんと定められて人々を縛る「正義」のルールがあるべきだという。
ロールズは汎用的な「正義」を社会の基本的な規律にすることで、人々に自由を与えることができ、なおかつ格差や差別を最低限に抑えられると考えた。

正義論-wikipedia

ロールズの正義とはたったふたつの原理から出来ている。ひとつは「人々は可能なかぎり自由であるべき」ということであり、もうひとつは、「人々の間の不平等は、万人が納得できるものでありかつ社会的にひっくり返せるものでなくてはならない」ということ。
つまり生まれや種族、学歴などによる差別の禁止である。

こういったリベラリズムは私たちに馴染み深いぶん納得できる思想に思える。が、そこには大きな矛盾があり、その矛盾ゆえにリベラリズムは大きな批判を受け、世界的に退潮しつつある。

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「寛容のパラドックス」とポリコレ

寛容のパラドックスとは


寛容のパラドックス(paradox of tolerance)とは、「社会が寛容な社会でありつづけるためには、不寛容にたいしては不寛容でなくてはならない」という逆説。
「寛容」とは、人々がそれぞれ能うかぎり自由に考え行動することを認め、そしてどんな人間のどんな考え方も可能なかぎり受け入れ差別をしない状態。すなわちリベラリズムが目指す状態である。
社会哲学者カール・ポパーが1945年に発表した。このパラドックスは、もし社会が無制限に寛容であるならば、その寛容は最終的には不寛容な人々によって奪われるか破壊されると述べる。

「みんなが好き勝手しゃべれる会をやろう」と言って集まったとき、もし「おまえの言ってることは許されない」と言い続ける人がいて、 その人を「好き勝手しゃべる会だから」と放置していたら、最終的にはみんながその人の前で何も言えなくなり集まりは失敗する、ということ。
だから「他人を攻撃するのはなし」というような制限をつけそれに違反した人は黙らせないといけないが、それはもう「好き勝手しゃべる会」ではなくなるということになる。

このパラドックス自体はとても微妙なもので、ポパーもいくつもの注釈付きで述べているが、問題提起として大きな意味を持っている。

寛容のパラドックスには現代リベラリズムの矛盾が詰まっている


寛容は現代アメリカ社会思想の核といえる概念のひとつである。
どんな個人の個性も考え方もそれを持つことは自由でありそれを表現することも自由であり、各人の個性や思想や種族や素性は、好き嫌いに関わらず許されるものとして受け止めないといけない。
これはロールズのいう「正義」の第一原理と第二原理を合わせたものである。
が、寛容のパラドックスによれば、寛容を無制限に許していると寛容な社会は不寛容な考えを自由に話す人によって損なわれてしまう。

だから現在のアメリカンリベラリズムは、「差別」「弱者いじめ」といった、リベラリズム的に不寛容な(不正義な)行為を糾弾し、社会全体で、ときには公権力の手で規制されるすべきだと考える。
みんな(国家含む)で社会を正しくする、というのがリベラルの根本思想だからである。
その「不寛容を排除する」ための基準が曖昧ではいけないからこそ、ロールズのいう「正義」が構想される。

こういった考え方から、アメリカのリベラル層から「ポリティカル・コレクトネス」と呼ばれる運動が生まれた。

黒人を「ブラック」と呼ぶのは差別だから「アフリカン・アメリカン」と呼ぼう、看護婦という呼び方は女性がやる仕事だという差別を含むから看護師にしよう、というのが政治的に正しい表現推進運動、略してポリコレ
これを多くのリベラリストが主張することで、少しずつそんなふうに社会を動かしてきた。
しかしもともと「問題ありそうな表現を無難なものにしよう」といった調整意図だったポリコレは、少しずつ「言葉狩り」「魔女狩り」の運動に近づきつつある。

悪いのはポリコレではなく、『ポリコレ棒を振りかざす正義の人達

この「ポリコレ大暴れ」が、反ポリコレであるトランプ大統領誕生の隠れた要因になったのではないか、というのはアメリカでもよく語られている。



しかしポリコレが「ポリコレ棒」と呼ばれるようになったのは、不可避のなりゆきだったとも言える。
寛容のパラドックスが示唆する解決策、つまり「不寛容には不寛容を」というのを実行すると、ポリコレにもとづく、不寛容にたいする批判発言だけは不寛容をむき出しにしたものでもかまわない、ということになる。
それはいくらなんでもおかしいだろう、という批判は当然でてくる。
あらゆる不寛容な言動を認めないのに、不寛容をとがめるときだけはいくらでも不寛容でもいい、というのは根本的な矛盾であり、実際に「言葉狩り」「無理やりな炎上」が繰り返されている。

ロールズ的なリベラリズムは、「正義」という強い基準を掲げたために、人を死に追い込めるほど強い「不寛容批判」に達してしまう。 黒人を黒人以外が「ブラック」と呼んだら人でなし(レイシスト)呼ばわりされ社会的な死につながるほどに。
「社会全体として不寛容を許さない」という考え方では、ひとつの不寛容な発言がそれにたいする不寛容を生む。さらにその不寛容な発言を不寛容だという声が生まれ、不寛容は増殖していく。
だから寛容のパラドックスは解けないパラドックスなのであり、これがひんぱんに炎上を生んでいる。

そしてなにより、「何を言ったら、何をしたら差別になるのか」という基準は、ロールズの大雑把すぎる正義論では判定することができず、ポリコレに熱心な人たちが「差別だ」と言ったら差別になる、というのが現状である。

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ポリティカル・コレクトネスの時代とその誤解:なにが「ポリコレ疲れ」を生んでいるのか?

日本においても、「ヘイトスピーチ」を法律によって禁じようという動きが出ている。
要するに、何か言葉を発するだけで犯罪者となり身柄を拘束される社会が到来するかもしれないということであり、これはリベラリズムの「自由を尊重する」という建前とは正反対のやり方に思える。
が、アメリカンリベラリズムとその系譜の思想は、結局のところ「社会全体で自由と平等をコントロールする」という思想であり、彼らからすればこれはコントロールの一種なのである。
こうして考えてみると、アメリカおよび日本のリベラリズムは、実のところ、現在の中国の、言論統制を積極的に行う考え方とかなり近いことがわかる。
根本的なところで社会主義的であり、社会主義がはらむ危うさと同じ危うさ、すなわち一部のものによる「独裁」の危険をはらんでいる。

リベラリズムの本質的な構想である「自由と平等を、社会全体で積極的に介入して実現する」という考え方に、こういった状況が生まれる大元がある。
この考え方をする人は、非常に多くの場合、自分はロールズが構想した社会全体の規律としての「正義」背負って動いていると考えるようになっていく。
個人の考えで動いているのに、あたかも自分が社会正義の代表であるかのような感覚になって動いてしまう。

そして、結局個人の勝手な考えであり基準じゃないかと言われるようになると、批判を避けるため、同じ考えの人を集め、団体を作りその団体の名で他者に圧力をかけるようになっていく。
いわゆる「圧力団体」「ロビー団体」の誕生である。こういった団体はほとんどの場合、しだいに歪んで異様な組織に変わっていく。
「個人の正義と社会正義を同一視する」ことがこういった事態を招く。リベラリズムそのものが、人々をそういうふうに導いてしまう面を持っている。

アメリカンリベラリズム的炎上 : 「正義」を背負っているかのように振る舞う人々によって、不寛容だと指弾されて炎上する。
アメリカンリベラリズム的炎上2 : 「正義」を背負っているかのように振る舞う人々が、何様だと逆に批判を受けて炎上する。

フェミニズム、多文化主義、難民問題など、現在の世界においてこのリベラリズム的炎上はもっともホットで激烈に燃える。不寛容が不寛容を呼ぶ地獄のループである。

完全自由主義:リバタリアニズム


リバタリアニズムとは、「自由至上主義」のこと。人間は誰もが「独立した自由な個人」であり、各人の価値観とそれに基づく行動は徹底的に尊重されるべきである、とする。
リバタリアニズムを信じる人のことをリバタリアンと呼ぶ。代表的な人物としてマレー・ロスバードなどがいる。
リバタリアニズムのいう「自由」には2つの面がある。経済的自由と個人的自由である。 経済的自由とは、個人が公的な規制を受けることなく経済活動をする自由。つまり、政府はなるべく何もせず、規制もかけないという反ニューディールの思想のこと。 経済活動の結果「勝者」と「敗者」が生まれることを肯定し、そこに救済をもうけない弱肉強食思想でもある。
もともとアメリカ人の「自由」とはリバタリアニズムに近いもの(古典的自由主義)で、ニューディールに反発することでより先鋭化していった。

この「経済的自由」のみに特化した思想のことを、「ネオリベラリズム(新自由主義)」と呼び、1990年代から2000年代に主流となった。
このネオリベの支持者は同時に、個人の自由を重くみない、いわゆる保守主義者だったりするので話がややこしい。

一方、個人的自由の中には現在タブーに近いとされるものも含まれることが多い。たとえば安楽死、同性愛、妊娠中絶などである。ここが保守主義との違いである。
リバタリアンは公権力による規制、すなわち警察や軍といったものの権力行使もできるかぎり否定する。極端なものは無政府主義に至る。

では実際問題、国家まで否定して他にどんな道があるのか、ということになると、リバタリアニズムでは「なんとなく全体としてうまくいくだろう」というぐらいの理論しかない。
そこには「独立した個人」の良識や優しさをまずは信頼しようとする、度を越えた楽観性がある。リバタリアニズムとは、結局のところ、銃弾と金がすべてを決めていた西部開拓時代に戻れという思想ではないかと言われると反論しようがない。
弱肉強食の世紀末的状況になり、人道もなにもなくなるのではないかという疑問に答えられてはいない。


このようなある意味投げっぱなしの考え方でありながら、現在、アメリカ国民の間でリバタリアニズムは確実に広がっている。後述のリベラリズムに対する反発がそうさせている。
しかし、やりたいことをやるんだ、誰にも邪魔はさせない、という姿勢は当然ながらしばしば炎上を招く。

リバタリアニズム的炎上 : 個人の自由だろ、といいつつ好き勝手やって炎上する。

アホな行為をわざわざネットに上げて炎上する。ある意味古典的な「愚か者」の炎上パターンがこれに当たる。

コミュニタリアニズムと「迷惑」の思想

リベラリズムの「個人」を考え直すコミュニタリアニズム


リベラリズムが抱え込む「寛容」をめぐる問題にたいし、個人が不寛容なのを社会全体で引き受けて制御しようなどと考えるから間違うんだ、ダメな個人はあくまでダメな個人として扱え、と考えるのがリバタリアニズム。
それはアンチリベラリズムの視点として一定の説得力があり、だからこそアメリカではリバタリアンが増えている。

もうひとつ、リベラリズムとリバタリアニズムの根本的な問題を「個人」の捉え方に見ようとするのがコミュニタリアニズム
支持する人のことをコミュニタリアンと呼ぶ。代表的論者としてマイケル・サンデルがいる。

コミュニタリアンは、リベラリズムやリバタニアリズムのいう「個人」は、現実に生きている人間とはかけ離れた概念になってしまっている部分がある、と指摘する。
どんな考え方も自由に持て、自分だけの不屈の意志と信念を持つ自立した個人、などという、リベラリズムが前提にしている個人など実際にはいない、という。
また、ロールズが至上ルールとした「正義」も抽象的すぎて現実にはあまりそぐわない部分がある、と批判した。

実際には存在しないような、強くて独立した「個人の自由」を構想し、机上の「正義」で人を裁こうとするから話がおかしくなるので、 実際の人間は必ず共同体の中で育ち、共同体の中で生きていて、けっして何事からも無条件で自由なわけではない。
それを無視するからリベラリズムは抽象的な主張ばかりになり、杓子定規になっていき温かみを失うのだ、とコミュニタリアンはいう。

コミュニタリアニズムでは、人間を「個人であるが共同体の一員でもある」存在として捉え、共同体全体が作る文化を身体に染み込ませた存在と見る。
そして個人は、共同体が全体として持つ「共通善」という指標を持つものと考える。
集団主義や保守主義に近いように見えるが、あくまで共同体は個人より優先されるべきものではなく、共存すべきものとして捉えられる。 共通善というのは「正義」ではなく、あくまで「共同体の多くの人にとっての幸福」であり、そのための「美徳」である。
つまり、杓子定規な正しさより身近なみんなの幸せ、だからみんな人のためになることをして社会をよくしよう、という思想である。

こうしてみると、コミュニタリアニズムは社会の現実にかなり寄り添った理論であり、理想主義になりすぎないよう調整された、現実的な思想であるように見える。
それは孔子の「中庸」の思想にもかなり近く、実のところ日本の人々の多くは表面上、コミュニタリアンに近い考え方を持っている。(それは同時に、保守的であるということでもある。)

「共通善」も抑圧として働く


では、「正義」ではなく「共通善」ならば、寛容のパラドックスを解消して不寛容が不寛容を呼ぶパターンを回避できるのか。
必ずしもそうではないことが、たとえばこの例からもわかる。

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ファミレスで自分がお金を出して頼んだ料理を残すことが、なぜ炎上になるのか。
それは、「食べ物を粗末にしてはいけない」という日本の見えない道徳、つまり「共通善」に抵触する行為、いわば「共通悪」になるからである。
誰にも迷惑をかけていないのに、ただ社会の見えないルールに反したから炎上する。

コミュニタリアニズムのいう社会の共通善はとても温厚で優しいものとされている。
が、その温厚で優しい社会の共通感覚の中には、必ず「明言されてないけどしてはいけない社会悪」が存在してしまうし、コミュニタリアニズムはそれを否定できない。
つまりローカルルールを許してしまう思想であり、極端に言えば、どんなに理不尽でも社会で支持されているルールならそれを「共通善」とみなしてしまう面を持っている。
コミュニタリアニズム自体は「修正版リベラリズム」であるが、修正版だけに、保守的・前近代的なローカルルールにたいして無抵抗である。

コミュニタリアニズム的(保守主義的)炎上 : 社会やグループの「見えないルール」「ローカルルール」を破ってしまい炎上する。
これはとくに日本において非常に多い炎上である。

日本の特徴 …… 「迷惑」をめぐる問題

「迷惑」の思想


日本では、「人に迷惑をかけるな」としょっちゅう言われる。それは日本人の日常生活における、最大の規範のひとつである。
人に迷惑をかけない、というのは、他人の自由や権利を侵害するな、というような「正義」をめぐる意味ではない。
もっと曖昧な「うるさくするな」「1人だけ勝手な行動をするな」「個人のテリトリーにうっかり入るな」というような意味である。

戦前、経済的自由も個人的自由も制限された状態を当たり前とする「保守主義」を基軸としていた日本人の考え方は、アメリカによって導入された自由主義によって解放され、おおきく揺さぶられた。
また、サバイバルに近い環境のなかでは、共同体も国家も二の次三の次でもあった。

60年代から70年代の人々も、「人に迷惑をかけるな」としょっちゅう言ってはいたが、その内容はいまよりずっと緩かった。
歩きタバコも立ち小便も当たり前だったし、ちゃんと列にならんだりもあまりしなかった。デモをやれば公共物や他人の持ち物を平気で壊した。要するにリバタリアンに近かった。



有名な1970年代の「温泉音頭」では、ためらいなくコタツに飛び乗って踊っている。これは現在テレビでやれば炎上の可能性がある行為であるが、誰ひとり問題にしなかった。

それが社会が成熟していくにつれ、「迷惑」の意識が強まっていく。
「戦後デモクラシー」の普及による日本人のリベラル化、ポストモダンに時代が移行していったこと、豊かになったこと、日本人の本来的な規範意識が目覚めるサイクルがきたこと、など、いくつもの原因が考えられる。

「迷惑をかけない」というのは、コミュニタリアニズム的にいえば、個人の自由が「共通善」と折り合うための指針であった。
「ともかく人の迷惑にならないようにすればなんとかなる」という、知恵のひとつであった。これは悪名高い「ポリコレ」とも共通する。
「迷惑」の思想はコミュニタリアニズム的であるが、同時に「世間」の規範を重視し個人の自由を制限する保守主義的でもある。そのどちらとも取れる地点に日本人は立つことになった。

そしてそのうち、「迷惑をかけないことが共通善につながるものだとするなら、人に迷惑をかけることは言語道断な共通悪だ」という認識になってくる。
少しでも「迷惑をかけること」を厳しく批判するようになっていく。これはポリコレと全く同じ成り行きである。

そして何より問題なのは、社会によって違う「共通善」「共通悪」につながる「迷惑」という概念は、地域や時代、さらには個人によって基準が全く違い、共有できないということである。

「迷惑」を共通悪と思い込むことが炎上を呼ぶ


たとえば、次のような事例がある。

苦情に高齢化…消える除夜の鐘「年越しの風物詩なのに」

この事案をどう考えるべきだろうか。
除夜の鐘をきいて厄落としをする、というのは日本社会がずっとつづけてきた伝統行事、つまり「共通善」に近いものである。
それが「迷惑行為」とされるのは、共通善とされてきたものもまた変化していくこと、見えない共通善の基準がなくなったらとたんに「ただの迷惑」になりクレームの対象になることを示している。

もし除夜の鐘が強固な「共通善」の一部であったなら、こうしたクレームは無視され問題にもならず埋もれただろう。そうではなくなっているから中止に至ったのである。

しかしこの事案の場合、「炎上」するとしたらお寺側ではない。クレームをつけた側である。
もしクレームをつけた者がSNSで発言をしていたら、おそらく大炎上していただろう。
たとえ、本人が真剣に除夜の鐘を「迷惑だ」と感じ、感じたことをそのまま口にしていたとしても。

「迷惑」というのは、個人が共同体と折り合うためのガイドのようなもので、けっして「共通悪」ではない。しかし多くの人がそれを勘違いし、自分にとって迷惑だということを共通悪に抵触したと思い込む。

また、たとえば次のような事例。

「ベビーカーが邪魔」赤ちゃん殴った64歳男!あんたの方こそ邪魔なんじゃないか

これなどは、「自分にとって迷惑だから」殴ってもいい、という典型的な例であり、おそらくそこには、個人の規範である「迷惑」と、共通善・共通悪を取り違えた根本的な間違いがある。
「自分が迷惑だと感じたら、それは共通悪なのだ」という思い込みが炎上を生む。これはコミュニタリアニズムに近いタイプの炎上だが、いかにも日本的といえるだろう。

日本的炎上 : ローカルルールよりさらに曖昧な、「誰かの迷惑」という基準にひっかかって炎上する。

日本的炎上2 : 自分が迷惑だと感じたことを、「共通悪だ」と勘違いして人を責めて炎上する。

「炎上」は、個人が「社会正義」や「共通善」の看板を背負ったときに起きる


ここまで見てきたように炎上にはさまざまなパターンがあるが、共通しているのは、炎上を煽る者の意識に「自分は周囲と善悪の基準を共有している」という思い込みがあること。
それは、知らず知らずのうちに「自分の正義は社会の正義」「自分の感じる善は共通善」だという認識に発展していく。
その認識が強固なものになり他人を責める行為を日常的にするようになると、今度は自分が嫌われ炎上することになる。

現代においては、私たちの「社会正義」も「共通善」もかんたんに定義できるようものではなく、またつねに曖昧で変化するものである。
炎上が炎上を呼ぶ悪循環を止めるには、自分たちの倫理観の曖昧さを自覚し、私たちが思ったよりバラバラであることを認めたうえで行動するバランス感覚が重要になる。



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