このページでは、比較的最近作られたコンテンツを中心に、物語の筋について分析を加えてみよう。

1.「千と千尋の神隠し」


<ストーリーライン>

親の仕事の都合で引っ越すことになってしまった平凡な10歳の少女・荻野千尋。これからの生活に不安を抱きながら、両親と共に新しい家へ向かっていた。
しかし道に迷ってしまい、無理やり進んだ小道の先でトンネルを見つける。千尋は怪しいトンネルを怖がったが、興味津々な両親に連れられてトンネルをくぐってしまう。

トンネルの先には異国風の繁華街があり、美味しそうな食べ物が並んでいた。そこで食事を始める両親と一旦別れ、千尋は街を見て回ることに。
そして、千尋は謎の少年・ハクに出会う。「ここにいてはいけない。」と無理やり追い返されてしまい、急いで両親の元へ向かった千尋。しかし、両親は豚に姿を変えられていた。

パニックになる千尋の元にハクが現れ、ここで生きるために湯屋で働くよう助言する。
千尋はハクの指示通り湯屋のボイラー室へ行き、そこで働く釜爺に「働かせてください!」としつこく頼み込んだ。熱意に負けた釜爺は、湯屋で働くリンに千尋の案内をさせるよう頼むのだった。

リンに案内された千尋は、湯屋の主人であり恐ろしい魔女の湯婆婆と会い、働かせてもらえるよう頼み込む。
湯婆婆は渋々それを承諾するが、「荻野千尋」という名は贅沢だからと、「千」に名前を変えられてしまうのだった。

<ストーリーのポイント>

◎主人公の千尋は、引っ越し後の生活に不安を抱えている。その背後にあるのは、両親と、両親がもたらす生活・価値観への不信感。

◎異界へのトンネルを潜る前から、千尋はいやがり抵抗している。ハリウッド的躊躇い。不吉な予感をいだきながら、抗しきれずその中に入っていく流れ。

◎賢者「ハク」が現れ、千尋を導く。

◎この物語の優れた点は、「越境」が何段階もの細かい積み重ねで行われていること。まずトンネルをくぐった時点、ハクに出会い追い返される時点、そして最後に、両親が豚に変わったのを知る瞬間に、越境は完了する。少しずつシークエンスを重ね、越境をこれ以上ないほど丁寧に描いている。

◎「両親が豚に変わる(=頼れなくなる)」瞬間が最終的な越境にあたることが、この物語のテーマ性を示している。「薄っぺらい親」「俗物的すぎる親」への不信と不安、にもかかわらず自分は無力であり離れられないということが、千尋の物語の核である。

◎千尋は越境した先で「名前」を奪われるという重大な制限を受けるが、同時に自分を縛っていた「両親」から自由になる。

2.「ダ・ヴィンチ・コード」



<ストーリーライン>

ハーバード大学の教授を務める宗教象徴学者のロバート・ラングドンは、講演のためにパリを訪れていました。
その時パリ警察が登場し、殺人事件が発生したこと、宗教象徴学者からの見解を聞かせてほしいと協力を要請したのです。

仕方なくラングドンは現場となったルーブル美術館へと同行することになります。事件の被害者はルーブル美術館の館長・ソニエールでした。

ソニエールは銃弾を受け、殺されてしまいます。しかし、心臓ではなく胃に撃たれていたことから絶命するまでの間にダイイングメッセージを残していったのです。
1つは死体の近くに書かれていたダイイングメッセージ、そしてもう1つはソニエール自身の不可解な姿です。
ソニエールはレオナルド・ダ・ヴィンチの作品として知られる『ウィトルウィウス的人体図』と同じ姿で亡くなっていました。

協力要請のつもりで来たラングドンでしたが、実は警察が元々ソニエールに会う約束をしていたラングドンを犯人だと思い、容疑者として連行していたのです。
しかし、ソニエールの孫娘で警察の暗号解読官でもあるソフィーの手助けにより、何とか現場を脱することに成功しました。

ソフィーはソニエールが残したダイイングメッセージが自分に託された暗号であること、ラングドンは潔白であることを分かっていましたが、それを上の人間に伝えても聞いてくれないと察し、ラングドンと2人で事件の真相を追っていきます。しかしその調査の先には、いくつもの謎と暗号、そしてキリスト教の深い闇が隠されているのでした。

<ストーリーのポイント>

◎一時期、欧米ベストセラー小説の定番の型であった「サスペンス・ミステリー」の典型的な序盤。

◎主人公(ラングトン)は、自分にはたいした動機がないにも関わらず、その顔の広さから事件に巻き込まれる。主人公が社会的地位と知性(と、モテオーラ)に恵まれた一流の男である、というのが欧米サスペンス・ミステリーのひとつの型であった。

◎どうして主人公はそうでなくてはならないかというと、ひとつは小説の「見せ場」は主人公ではなく作中の謎そのものにあるから。この作品の場合、ダ・ヴィンチの残したという謎そのものが物語の本体であり、それをストレスなく解き明かしていくために主人公はキレる人物でなくてはならないし、主人公の複雑な内面をいちいち描かなくていいようにしなくてはならない。つまり大人である必要がある。 このような主人公像は、ホームズやジェームス・ボンドの頃から伝統的に引き継がれているものである。

◎主人公は強い欲求を持っていないうえに巻き込まれている立場なので、そのままでは強い行動の動機を持てない。なので多くの場合「疑われる」「冤罪をかけられる」「苦しい立場に追い込まれる」「謎の勢力に襲われる」といった形で「越境」を行う。

◎「賢者」が知性的な美女である、というのも完全に定番である。適度に調査のヒントを出しつつ、主人公の見せ場を邪魔しない。恋が芽生えていくのもパターン通り。

◎現在もこのタイプのサスペンス・ミステリーは作られ続けているが、もはや欧米エンターテインメントの主流からはやや外れた感がある。それはやはり、主人公がステロタイプすぎるからであろう。
主人公が柔らかい心をほぼ持たない、物語の狂言回しとして動くタイプである以上、それを取り巻くキャラクターも自然にステロタイプになる。

◎また、主人公が多くの場合「プロ」としてふるまいたんたんと調査をしていくのも、物語として面白さを欠く要素ににつながっている。
昨今のこのジャンルは、主人公に深みをもたせる努力をいろいろとしているものが多いが、それでも結局は「謎」の部分だけが光るというコンテンツになりやすい。

3.「鬼滅の刃」


<ストーリーライン>

山奥で、母と兄弟5人と共に暮らす少年。竈門炭治郎。父を早くに亡くした炭治郎は、定期的に家族のために町へ炭を売りに向かっている。
炭治郎は町の人々から人気だった。人より鼻が利き、匂いを嗅ぐことで人々の揉め事を解決していたためである。

炭売りが終わり帰路の途中で炭治郎は、知人の爺さん、三郎に引き止められる。三郎爺さん曰く、夜には鬼が出るのだという。
「ここに泊まれ」と説得された炭治郎は三郎の家で一泊する。

翌朝、炭治郎は山奥の自宅へ向かう。家が近づくにつれ、血の匂いが濃くなってゆく。家族に何かあったのではないかと炭治郎は感じ取るのだった。
家に戻ると、玄関先で2人が血を流して倒れていた。家の中を見ると、残りの4人も全員死んでいる。炭治郎の全身から汗が吹き出し、目から涙がこぼれ落ちる。

家族の中で唯一妹の禰豆子はまだ息があったため、炭治郎は禰豆子を背負い、医者の元へ向かう。下山途中で、背負っていた禰豆子が突如奇声をあげた。
禰豆子はなぜか鬼になっていた。理性を失っており、炭治郎に被さるように襲いかかる。炭治郎が涙ながらに説得を試みると、禰豆子は理性を取り戻したようだった。

そこへ謎の男が現れ、禰豆子に斬りかかる。男の名は冨岡義勇という。間一髪で攻撃をかわすが、すぐに禰豆子を捕らえられてしまう。
義勇いわく、傷口から鬼の血が入って鬼になったのだという。また、鬼を斬ることが自分の仕事であり、禰豆子の首も容赦無く斬ると告げるのであった。

禰豆子を助けて欲しいと炭治郎は頭を下げるが、義勇は他人任せな炭治郎を叱責し戦うよう鼓舞する。
炭治郎は刺し違える覚悟で男に立ち向かい、石と斧であと一歩のところまで追い詰めるのであった。しかし、あと一歩のところで気絶させられた炭治郎。

鬼の禰豆子は気絶した炭治郎の元へ走る。食べるかと思われたが、禰豆子は炭治郎を守る姿勢を見せた。
この2人は何か違う、そう感じ取った義勇は2人に狭霧山の鱗滝左近次という人物を訪ねるように伝えるのであった。
2人は亡くなった家族を埋葬し、狭霧山へ向かって走り出す。


<ストーリーのポイント>

◎鬼滅の刃はときに「ストーリーが王道すぎる」「なんで売れたのか物語的にはよくわからない」と批評されるが、きちんと見れば物語的にも見どころが十分ある作品である。

◎物語の核心は、炭治郎という異常なほど優しく人のことを考える主人公と、鬼をめぐるひたすら血なまぐさい抗争という内容があまりにもミスマッチであること。
本来の性格的に全くふさわしくない世界に他にどうしようもなく引き込まれていく、炭治郎の複雑な反応こそが物語の軸になっている。

◎つまり、究極の巻き込まれ型ストーリーといえる。
突然家族を惨殺されるという「越境」の仕方には主人公の性格を歪める要素が詰まっているが、炭治郎はそういう目に合っても心優しいまま血の海の中を進んでいかないといけない。
そういう難しい人物設定を守り続けるためには絶対にゆるがせにできない強い動機が必要であり、そこでどうしても守らなくてはいけないのに守ることが困難なキャラクター、すなわち妹の禰豆子が物語の中心に座ることになる。

◎鬼滅の刃の世界に全く似合わない炭治郎の性質と、それを持続させるエンジンとして人と鬼の二面性を一身に背負う禰豆子。
この二人が恋人ではなく兄妹であるということが、鬼滅の刃の物語世界をどこかピュアなものにしている。

◎家族を殺され、妹を味方(っぽい人)に殺されかけ、殺人者への復讐と妹の守護という異なるふたつの動機をいやおうなく持たされる。
これほど劇的に作られた「越境」のシークエンスは、逆にいえば強すぎて「やりすぎ感」が漂うリスクもある。
それを炭治郎や禰豆子の造形によって巧妙に回避した、王道でありながら優れた導入であるといえる。

4.「ザ・スクエア 思いやりの聖域」


<ストーリーライン>

2017年カンヌ映画祭パルムドールを受賞したアート系映画。

ストックホルムの現代系美術館で主任学芸員をつとめるクリスティアンは業界では有名な男。ハンサムで美術に詳しくメディアにも引っ張りだこ。
そんなクリスティアンがパーティーの翌日、インタビューを受けるところから映画は始まる。

「こちらのHPの記事ですが、、、」とプリントアウトしたであろう紙を観ながら質問をする女性記者。
「理解出来ない点がありました、5月30ー31日、”展示/非展示”『展示可』のダイナミクスを探る対話、”場所/非場所”における公共性の構築、非場所から場所、非展示から展示、巨大展覧会での展示/非展示の主題とは何か?」、
「いいかな」と、女性記者からプリントした紙を渡してもらい目を通すクリスティアン、「・・・これは・・・、5月の何日かに議論したものだ、つまり、もし何らかの物体を美術館に置いたなら、その物体はアートになるか?だ、・・・もし君のバッグをそこへ置いたら?それはアートか?」、「アッ、・・・なるほど」、「納得した?」、「えぇ、大丈夫」
クリスティアンはHPの記事をチェックしておらず、議論の内容もよくわかっておらず、そして女性記者は納得もしていない。そんなむなしいインタビューの様子が映される。

物語の軸となる話はふたつある。
ひとつは、クリスティアンが通りすがりの三人組に巧妙なスリを仕掛けられ、スマホと財布を盗まれる事件。
クリスティアンは中途半端な対応に終始しているうちあっさりと引っかかり、やがてGPSでいま自分のスマホが貧民街のあるアパートにあるらしいとわかる。
クリスティアンは犯人をあぶりだすため、匿名の脅迫状をアパート全戸にまくというイタズラを思いつき実行するが、その煽りを受けて家庭で風評被害にあった小さな男の子から猛烈な抗議を受け、つきまとわれる。
ついに苛立ったクリスティアンは少年を階段から突き落としてしまい、しかもそのまま放置する。
やがてさすがに良心がとがめ少年の行方を追い、現代社会がどうのと言い訳を並べる中途半端な謝罪動画を作り届けようとするが、もう少年はどこにいったかわからなくなっていた。

もうひとつは、著名アーティストによる美術館の看板作品「ザ・スクエア」の話。
床を四角い線で囲っただけの作品で、その中では私たちは他人にどこまでも寛容になり、誰にでも平等に優しくしなくてはならない、という設定。
美術館出入りの広告代理店のエージェントたちは、そのメッセージはありきたりすぎるから過激な宣伝をしないとダメだ、とひたすらダメ出しをする。
スマホ事件で上の空のクリスティアンはそれを適当に聞き流し中途半端な賛同をする。
そして、スクエアの中に汚れた女の子が入り、バラバラになるという、作品とはかけ離れた過激な動画が作られ、ネットで大炎上することになる。クリスティアンは動画チェックもしてないまま責任を取らされることになり、記者会見で晒し上げられ、社会的地位を失うことになる。

<ストーリーのポイント>

◎「冒険物語でない物語」がどういうものか、を示すためパルムドール映画を題材にさせてもらう。

◎この映画を冒険物語的観点から見ると、「越境していることに気づけず、越境によっても変化できない男の物語」ということになるだろう。主人公クリスティアンはつねに上の空で、その場その場に集中していないし真剣に何かを考えてもいない。誰かから何かを言われるとそれに中途半端に反応し、認めてはいけないものをなんとなく認め、やってはいけないことをなんとなくやってしまう。

◎そういう人間が「人間の本質を芸術にする」という現代美術の裁定者的地位にいる、というのがポイントで、彼はテキトーなことを言っていればなんとなく全部通ってしまう立場ゆえに、自分が越えてはいけない地点をいくつも越えていることに気づけない。それは脅迫状をまくイタズラであり、過激な動画の製作許可であるが、最後まで彼は自分がやったことから逃げ腰である。

◎その原因のひとつは、彼が「現代アート」の人だからで、「アートであれば何でもいい、何をしても価値がある」という曖昧でいいかげんな論理に浸りきっているからだ。
それは彼の周囲も同様で、この映画の圧巻とされる、ザ・スクエアの作者を囲むパーティーの場面が、それを象徴する場面となる。
そこに呼ばれた、醜い人狼のふりをするパフォーマーは、なにか恨みを抱えているのか、正装の客の前でテーブルに飛び乗り、限界を越えてセクハラ・パワハラをし暴れまわる。
しかしザ・スクエアの寛容に賛同して集まったということになっている客たちはそれにたいし何もできず、みな下を向いて黙りこくることになる。

◎冒険物語とは成長儀式の物語である、と言ったが、だとするとこの主人公は冒険物語の主人公ではない。成長しないし、する気もないからである。世界を理解していく気がなく、彼が口にしている親愛や優しさを実行するつもりがはなからないからだ。

◎人間とはそういうダメな存在である、私たちは取り繕うことは上手くても成長なんかロクにしないのだ、大人になればなおさらだ、というのがこの映画のメッセージであり、現実には人は冒険物語のように、「越境」で変化し目覚めたりしない、越境はもっとグズグズな、曖昧な形でやってくる、というのが、ここ数十年のアート系映画の多くで繰り返し語られてきたことである。

◎だからこそ、こういった映画の意味を知るためには、その反対側にある「冒険物語」について理解する必要があるのだ。この映画で皮肉をこめて語られている人のダメさはたしかに真実なのかもしれないが、それだからいっそう、人が希望を見るための物語、すなわち冒険物語はすたれないのである。

5.なろう系の現在地


作品名
妹が妊娠しました。相手は私の婚約者のようです。


<ストーリーライン>

妹のデイジーは、全てを奪って行く。愛する婚約者も、例外ではなかった。
「私ね、キール様の子を妊娠したみたいなの」
妹は、私の婚約者キールとの子を妊娠した。両親は妹を叱るどころか二人の婚約を祝福した。
だけど、妹は勘違いをしている。彼を愛してはいたけど、信じてはいなかった……。

伯爵家の令嬢ハンナは女遊びが激しい婚約者を妹に奪われ、かわりに妹の婚約者アーロンと結婚することになる。
ハンナの幸福をいっさい顧みようとしない両親にハンナは傷つき、家族としての感情を失っていく。
そして親の言うまま、アーロンの家に行き、婚約者を取り替える交渉を行うのだった。

しかし家を移ってみると、アーロンは優しく誠実に、そして情熱的にハンナに接してくる。その家族も優しく、ハンナもまたたくまに心を許し、愛される幸福を実感するのだった。
一方、妹デイジーは姉への嫉妬からキールを寝取ったものの、頼りないキールと周囲の冷たい眼に追い詰められていく。

アーロンはキールの家とハンナの実家に、婚約不履行の責任を問い莫大な賠償を求める。
身勝手なハンナの両親はあわててハンナにすがるものの、冷たく拒否されて途方にくれるのだった。
デイジーは「自分は姉さまよりも愛されている、誰にでも愛されているのよ」と叫ぶが、幽閉された屋敷でそれを誰も聞くものはいなかった。

<ストーリーのポイント>

◎けっこう複雑な内容が書かれているのに、全体としてはかなり短い。というのも、ここにはほぼ物語の骨しか書かれていないからである。

◎いったいこの物語は何だろうか、と問うならば「愛されること」、ひたすらそれを巡る物語だと言っていい。愛されること、がこの物語世界のなかでは至上の価値でありそれが全てである。

◎なぜデイジーは姉のものを全て奪い尽くすまで止まらないのか。自分が姉よりも両親に愛されている、という確信があり、それは全ての倫理を乗り越えるほど強大な価値だと信じているからである。
そして主人公ハンナは、親から愛されていないという一点で、弱い立場を甘受しなくてはならないと思いこんでいる。
だからこそ、妹と婚約者を取り替える、自らは望んでいない非常識な交渉に、自ら出向いていくという異様な行動をする。

◎そんなハンナは、事態が限界を超えたときから、愛されなかったら自分から捨てればいいんだ、と考えはじめる。「愛されること」が全ての世界なのだから、自分を愛さない者は自分にとって無意味なのだと気づきはじめる。
そして新婚約者アーロンに「愛されている」と実感した瞬間から強い人間に変わっていく。いっぽうデイジーは、自分を愛さない環境に置かれたとたんに萎れていく。
この短編は、ハンナとアーロンの間で愛が確認されたときに実質終わっている、といっていい。愛されなかった少女が愛されて幸せになる、少女に愛されていても愛さなかった者は不幸になる。徹底してそういう話なのだ。

◎見かけ上、この短編には「越境」、すなわち取り返しがつかない物語の発火点がある。冒頭の、婚約者を寝取ったと妹に告げられた瞬間である。
ハンナは物語がはじまる遥か前から破滅的状況にいて、大昔にもう「越境」してしまっている。愛されない者は無価値とみなされるような世界では、彼女は最初から地の底に落ちていて、デイジーの発言はそのことを露わにしたにすぎないといえる。

◎「越境」のあと、ハンナは家族へのこだわり、婚約者へのこだわりを捨てはじめる。それがハンナの「冒険」ということになるだろう。
しかし事態を救うのはアーロンであって彼女ではない。「愛されること」が全てを解決する物語世界のなかでは、ハンナはどこまでも受動的な部分を残さざるをえない。
「愛されること」にこだわりそこに全てが注がれる物語は、全体的にどうしても広がりを欠くことになる。それ以外に争点となるポイントがないからだ。
だからこの物語にかぎらず、最近のなろう系小説は短編中心にシフトしている。余計なこと、「愛されること」をめぐる葛藤以外は描きたくないのだ。

◎女性向けにおいては「愛されること」、男性向けにおいては「周囲に認められること」。
最近のなろうの小説は、こういった強い欲求、せつない欲求をひたすら満たそうとするものが多い。
それは、商業作品ではめったにお目にかかれない、ストレートで素朴な精神的需要を反映したもので、なろうだから書ける、読めるものである。けっしてネガティブではない。

◎が、強い欲求によって生み出された「形式」は、しだいに固定化され作品のバリエーションを奪っていく。
かつて、鎌倉室町期の短歌に起きたこととよく似ている。ウケる作風が決まってきて、同じような言葉しか使われなくなり、誰が書いても同じような歌になっていく。
すなわち「見えないデータベース」の固着化。いったんそれが起こり始めると、不特定多数の意識の反映であるがゆえに、それを覆すことは難しいのである。

◎むろん、このような「形式」にしたがいながら、よりポジティブで行動的な主人公を描いたり、オリジナリティのある世界観を構築する作品はいまも書かれている。
が、そういった作品は少しずつ「カクヨム」のほうに移行しつつある。
なろうの後追いサイトとしてややマイナーな存在であったカクヨムでは、なろうほどの固着化は起きておらず、ユニークな作品がいくつか連載されつづけている。

代償θ?転生に出遅れたけど、才能溢れる大貴族の嫡男に生まれたので勝ち組かもしれない

6. The Elder Scrolls V: SKYRIM


<ストーリーライン>

SKYRIM(スカイリム)は、2011年に発売されたRPG。オープンワールド(世界に境目がなく、世界のどこにでも自由に行ける)RPGの金字塔であり、ゲームの歴史を変えたゲームのひとつである。

SKYRIMとは、タムリエル大陸の北方にある広大な国の名である。ノルドといわれる屈強な(つまり脳筋の)種族が主に住んでいる。
主人公はこのスカイリムの国境を越えようとして捕まった無名の者であり、どんな種族も名前も性別も自由に設定でき、ゲーム内ではごく稀な例外をのぞきいつでも自由に行動することができる。

なかでも中心となるのが、スカイリムに突然現れた太古の伝説的存在「竜」である。
竜の襲来によりスカイリムに被害が広がり始めたとき、主人公は竜から力を吸収できる稀有な存在「ドラゴンボーン(現地後でドヴァーキン)」だと明かされ、竜との戦いに赴くことになる。

しかしそれはSKYRIMの物語の数%にすぎず、内戦、戦士団、盗賊ギルド、吸血鬼戦、暗殺ギルド、魔術師大学、など、多くのストーリーラインがありそこに自由に入っていくことができ、またいつでも離脱したり放置したりできる。
それぞれのストーリーラインには必ず「越境」の瞬間がある。それはSKYRIMの場合、たいていはなにげないクエストとして存在している。
たとえばメインの竜クエストでは、謎の石版をダンジョンから持ち帰りある人物に見せると、主人公がドラゴンボーンとして覚醒する流れになる。
盗賊クエストは、ある街であやしい露店をやっている男から声をかけられ、ちょっとした仕事に手を貸したことからギルド入りすることになる。
魔術師大学は行けば入れるし、野盗以外の誰かをどんな理由があれ殺してしまうと暗殺ギルドに誘拐される。

もっとなにげない「越境」もあり、とある街で犬探しを頼まれると、なぜか邪神クエストにつながってしまったりする。

<ストーリーのポイント>

◎読むものでも見るものでもない、プレイするものとしての「冒険物語」。その決定的な形を作ったのが、このSKYRIMである。

◎SKYRIM以前にも以後にも、すぐれた冒険体験をさせてくれるゲームはたくさんある。たとえば最近では「エルデンリング」がそうだろう。
だが、SKYRIMのように、主人公=プレイヤーになにひとつ決まった設定を与えない(あるのはドラゴンボーンという、途中でわかる設定ただひとつだけである)ゲームはいまだに他にない。
つまり、あたうるかぎり自由に、プレイヤーが冒険物語を「作れる」ゲームなのである。
ドラクエ的勇者でもなく褪せ人でも亡者でもゼルダ姫の想い人でもないので、使命もない。竜を倒しながらひたすら街の者から万引きする生活を送ってもいいし、内戦の英雄をやりながら暗殺者をやってもいいのである。

◎なぜ、そのような多様な物語を一本のコンテンツに詰め込むことが可能だったのか。それには、ゲームならではの性質、つまり「無限にやり直せること」が前提になっている。
嫌になったら無限にやり直せるからこそ、気軽に暗殺者になるし、盗賊になるし、帝国の犬になるのである。自分はそういうキャラになるのだ、と思い決めたらどこまでもそうなれる。

◎が、そのことこそが、SKYRIMの限界であるともいえる。
つまり、なにひとつ強制してくる設定がないので、「自分はこういうキャラになる」という思い込みがなければ、たんたんと目についたクエストをやるだけのゲームになってしまう。
世界の命運がかかっていることになってはいるが、それがいまひとつ説得力を持たないのである。崇高なことをやりながら変装して万引きができるゲームで、人は崇高になかなかなりきれない。
だから、SKYRIM以後の多くのゲームは、主人公になんらかの設定を与えたうえで自由度を高めているのである。

◎おそらくSKYRIM的自由さと、冒険物語としての盛り上がりを両立させるためには、高度化しつつあるAIが大きなカギとなるだろう。
すなわち「ゲームマスター」がいて無限の自由度がある、RPGの始まりの形であるテーブルトークRPGの世界である。
AI技術とゲームデザインの結びつきが、いつか、RPGの世界に面白いことを起こすことになるかもしれない。





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