ウェブ表現研究Dの授業コンセプト


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ウェブ表現研究Cで何をやるか

1)「時代性」というキーワードを軸に、現在のネット関連の事象を分析してみる


物事がある状態になっているのには、必ず理由があり、そうなるまでの経緯がある。
あることが現在そうなっているのは「今だからそうなっている」のであって、昔からずっとそうであった、ということはほとんどない。
あらゆることは時代とともに変化する。それが「時代性」ということ。
時代性を理解したうえで物事を捉えることで、理解はずっと深くなるし、未来の予測もある程度できるようになる。

2)2019年の日本を知るためには、過去を「感覚として」知ることが大切


私たちが住む日本の歴史は、1945年にいちど大きな転換点を迎えている。それ以降の歴史を「感覚として」掴んでおくことはとても大事。
つまり、歴史観、世界観を「なんとなく」持っておくことが大事ということ。
その観点がなければ、現在日本で起きているいろいろなことの多くが、「なぜそうなっているのかわからない」ということになる。

3)日本と世界は、1980年代後半~1990年ごろ、ふたつの大きな屈折点を迎えている


とても大づかみな見方として、昭和の終わりごろ、つまり1980年代の終わりごろに、日本と世界の歴史の流れは大きく変わっている。
おおきな事件があって変わったというより、水が溜まって溢れ出すように時代が変わっていった。
日本においては、「戦後」と呼ばれた時代の流れが収束し、別の流れになったということ。
世界的にいえば、冷戦の終わりとともに「ポストモダン」の時代が本格的に始まったということ。
私たちはいま、「時代が変わってから約30年後」の世界に生きている。そのことをまず把握しておこう。

「命に嫌われている」を読む




「命に嫌われている」は、ボーカロイド作曲者のカンザキイオリが2017年に発表した楽曲。
以下、歌詞。

「死にたいなんて言うなよ。」
「諦めないで生きろよ。」
そんな歌が正しいなんて馬鹿げてるよな。

実際自分は死んでもよくて
周りが死んだら悲しくて
「それが嫌だから」っていう エゴなんです。

他人が生きてもどうでもよくて
誰かを嫌う事もファッションで
それでも「平和に生きよう」 なんて素敵なことでしょう。

画面の先では誰かが死んで
それを嘆いて誰かが歌って
それに感化された少年が ナイフを持って走った。

僕らは命に嫌われている。
価値観もエゴも押し付けて
いつも誰かを殺したい歌を
簡単に電波で流した。

僕らは命に嫌われている。
軽々しく死にたいだとか
軽々しく命を見てる僕らは
命に嫌われている。


お金がないので今日も一日中惰眠を謳歌する。
生きる意味なんて見出せず、無駄を自覚して息をする。

「寂しい」なんて言葉で この傷が表せていいものか
そんな意地ばかり抱え今日も一人ベッドに眠る

少年だった僕たちは いつか青年に変わっていく。
年老いていつか枯れ葉のように 誰にも知られず朽ちていく。

不死身の身体を手に入れて、
一生死なずに生きていく。
そんなSFを妄想してる。

自分が死んでもどうでもよくて
それでも周りに生きて欲しくて
矛盾を抱えて生きてくなんて 怒られてしまう。

「正しいものは正しくいなさい。」
「死にたくないなら生きていなさい。」
悲しくなるならそれでもいいなら ずっと一人で笑えよ。

僕らは命に嫌われている。
幸福の意味すらわからず、
産まれた環境ばかり憎んで
簡単に過去ばかり呪う。

僕らは命に嫌われている。
さよならばかりが好きすぎて
本当の別れなど知らない僕らは
命に嫌われている。


幸福も 別れも 愛情も 友情も
滑稽な夢の戯れで 全部カネで買える代物。

明日、
死んでしまうかもしれない。
全て、
無駄になるかもしれない。

朝も 夜も 春も 秋も
変わらず誰かがどこかで死ぬ。

夢も明日も何もいらない。
君が生きていたならそれでいい。

そうだ。
本当は そういうことが歌いたい。


命に嫌われている。
結局いつかは死んでいく。
君だって 僕だって
いつかは枯れ葉のように朽ちてく。

それでも僕らは必死に生きて
命を必死に抱えて生きて

殺して あがいて 抱えて 笑って
生きて、生きて、生きて、生きて、
生きろ。

「命に嫌われている」の歌詞をどう読むか


この歌を、自虐や自嘲の歌と読むのは間違いではない。が、自虐のもとになっている状況そのものを歌っている歌と解釈するのがよりふさわしいのではないかと思う。
「生きること」の定義、意味、価値から「嫌われている=隔てられている」というのが、この歌のテーマである。

「生きることは素晴らしいこと」「死ぬのはつらい、悲しいこと」「生きているだけで価値がある」「生には意味がある」という、ひろく信じられている価値観から、実は私たちはとっくに離れてしまっている。
「命に嫌われている」というのはそういう意味。生が貴重な取り返しのつかないものだという実感をなくしているということ。
それがないから、「幸福の意味すらわからず」、「正しさ」という言葉に全く価値を見いだせない。

世の中に出ている「生の大切さ」といった多くの言説や報道、そしてそれを見聞きしている私たちの無意識と、生に鈍感になっている私たちの本心の間の乖離。つまりダブルバインド的な心のあり方が、この歌の本当のテーマ。
この歌詞が全体的に少しずつ矛盾したことを言っているように見えるのは、ダブルバインドをそのまま歌詞にしているから。
「生を大切にしたい」ということ自体は間違ってないのに、そういう言葉が世にあふれることがマイナスになり生の実感から遠ざかる、という複雑な状況をこの歌は歌っている。

この歌にはネガティブな言葉が並び、世界全体が手がかりを失って虚無に近づいているような感覚が満ちている。
だからといって何もかもどうでもよくなっているわけじゃない、というところにこの歌のユニークさがあり、現代性がある。

一人で引きこもる描写や、薄っぺらい言葉が溢れていることを皮肉る描写にまじって、たびたび「他人を気にする」「世間を気にする」言葉が混じっている。「矛盾を抱えて生きてくなんて 怒られてしまう」あたりがその典型。
いっけん手応えのない孤独な環境にあるように見えようと、現代のこの社会にはいつも他人の目、他人の視線があり、なにもないようでも空間にはいつも言葉が飛び交っている。
それは私たちを縛り付けるネガティブなものであると同時に、やはり励ましでありなにかしらの動機なのだ、というのがこの歌の裏テーマになる。

古い生命観を失ってなお、私たちが生の取替のきかない価値を実感するために残されたルートが、「他人への共感」である。
「自分」ではなく「親しい他人」の生を通じて、私たちは生の価値をはじめて実感できる。だから「エゴ」であろうとなんでろうと、他人には生きていてほしい。死んでほしくない。
自分もまた誰かにとって親しい他人であり、そのつながりによってようやく自分の生と死も意味を持つのだ、ということが、「君が生きていたならそれでいい」いう言葉につながっている。

いっぽう、この歌の72年前、戦後の焼け跡で歌われた「生」と「死」の詩はこんなふうであった。

黒田三郎 死のなかに

戦争のなかでは、死は避けるべきものですらなかった。すぐ隣にいて、開き直って馴染むしかないようなものだった。
そこにはある種の解放感すらあった。多種多様な欠点を抱えたいろいろな人間たちは、死が横にいる状態では平等であり平等に価値がなかった。
詩人はその状態から帰還し、終戦後の東京で生き始めたとき、死は避けるべきものであり、金がかかるものであるという新しい事実に馴染めずにいる。
戦時中の南洋の島では完全フリーにちかかった「死」が、スペシャルな出来事になりはじめていることに戸惑っている。

たった75年ほどで、私たちの「死」はここまで変わった。この「時代性」の違いと流れを実感してもらうのが、この講義の目的となる。





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