バーチャルユーチューバー(VTuber)とはなにか

バーチャル(Virtual)=仮想的


YouTuberは、YouTubeなどの動画サイトを舞台に、動画提供や配信放送を行う映像表現者でありアクターである。
その中で、バーチャルな性質を持つYouTuberをバーチャルユーチューバー、略してVTuberと呼ぶ。

では、バーチャルという言葉は何を意味するのだろうか。

辞書的にいえば「事実上の、実質上の、仮想的な」といった意味となる。
語源はラテン語の「男らしさ」を表す言葉で、これが「力のある」という意味になり、「目に見えないがそこにあるパワー」といった意味に転じていった。

もっともポピュラーな使い方としては、「バーチャルリアリティー=仮想現実」。
物質としてはそこにないが、認識としてはそこにある時空間のこと。

バーチャルとは「物質としてあるいは生身の現実としては実在しないが、人々の認識の中で存在しているかのように扱われたり仮定されたりするモノやコトを表す言葉」である。

バーチャルはポストモダンだから成立する


バーチャルという概念はポストモダンの時代でなくてはひろく流通しえない概念である。そこには前に述べた「シミュラークル」の仕組みが強く働いている。
私たちのなかで、「現実にあるもの」と「人々のイメージの中にしかないもの」の境目は薄くなってきている。だからこそ「あると思えばある」というバーチャルの感覚を容認できるのである。

また、バーチャルという概念はインターネットの普及を抜きにしては語れない。
インターネットが独自の文化空間、独自のビジネス価値を持つことによって、インターネットはある種の「第二現実」になった。 そういった推移のなかで、ネットはリアルの植民地ではなく、リアルと切り離された価値体系を持ちうること、私たちはリアルの私たちとネットの私たちを切り離せるということことが (それがある種の錯覚も含むとはいえ)当たり前になってきた。

VTuberとは「仮想要素を利用した配信者」


Virtual YouTuberといえば、現在の一般的イメージは「顔出しせず、アニメっぽいガワを持っている配信者」。
そのイメージはだいたいにおいて間違っていないが、字義からいえば正確でもない。

「バーチャル(仮想的」な要素をなんらかの形で利用している配信者であれば、たとえ二次元のグラフィックを持っていなくても、たとえ顔出しをしていても、VTuberと呼んでよいのではないかと思われる。

大切なのは、仮想ということを通じてエンターテインメントとしての可能性を広げているかどうか、である。

Vtuberのキャラクター構造

従来のメディアペルソナはパーソンとメディアカルチャーから作られる


テレビを中心とした芸能の世界が、その人の素の姿(パーソン)とは違う、単純化され抽象化された顔、つまりメディアペルソナを作ることでエンターテインメントを作ってきた、ということは前回述べた。

メディアペルソナを作るためのノウハウをテレビの世界から借りつつテレビの外で活動することで、YouTuberという人気ジャンルが成立したということも述べた。

[メディアペルソナの成立構造]



テレビにおけるメディアペルソナは、パーソンをもとに、テレビ的・芸能的なペルソナノウハウの蓄積(テレビ的な見えないデータベース)の影響下で、 パーソンから少し離れたところに作られるもの。これは有名顔出しYouTuberの場合もほぼ変わらない。

第三の要素として「成り上がりカルチャー」がそこに加わりつつある、ということも述べたが、成り上がりの要素が増えれば増えるほど、それは特殊なコンテンツになっていく。
なぜなら、そうであればあるほど、「平凡な日常」から離れていくからである。

VTuberとは、Youtuberが抱える「疑似タレント」としての難しさを、日常マンガ・アニメの手法を取り入れること、そしてマンガ由来のキャラクター論を取り入れることで解決しようとする試みであるといえる。

VTuberの特徴は、構成要素に「キャラクター設定」を持つこと


VTuberが従来のYouTuberと異なる点は、彼らがフィクショナルにデザインされたキャラクターとしての要素を持つことである。
ここでいうキャラクター設定は、そのキャラクターの出自や物語だけでなく、グラフィックも含む。

吸血鬼、宇宙人、鬼、アンドロイドといったSF的またはファンタジー的な設定を持ちそれに即したグラフィックを持つことで、彼らはデフォルトである種の「ストーリー性」を持っている。 これが、テレビ的・芸能的な「芸人」「タレント」「識者」「解説者」といった枠にいる、従来のYouTuberといちばん違うところである。



テレビ的なカルチャーの影響も強く受けつつ、漫画・アニメなどのサブカルチャーやネットカルチャーに由来する設定やストーリー性も持っているため、 メディアペルソナとしての振れ幅が大きい。つまり、「ギャップ」を作りやすい。

現代のキャラクター制作において、設定やグラフィックのギャップ(凸凹)を作ることの重要性は別ページで分析しているので参考にしてほしい。

キャラクター論 ~二つの観点から~
続・キャラクター論とキャラクター設定実習

VTuberの最大の武器は、誕生時からフィクショナル(架空の)要素を持っているため、「ロールプレイ」「遊び」「でたらめ」の要素を強く入れられることである。

ただ、このフィクショナルなキャラクター要素は、漫画・アニメ、そしてネット系の文化蓄積、つまり「見えないデータベース」に非常に強く依存している。 そのため、そういうカルチャーから縁遠い人にとっては敷居の高いコンテンツになっている面がある。
つまり「VTuberはオタク専用コンテンツ」といわれても仕方のない部分があり、一定数以上の顧客を集められないでいる。

参考文献:ナンバユウキ「バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン・ペルソナ・キャラクタ」

動画で見るさまざまなVTuber


VTuberの歴史

キズナアイ …… 引退したVTuberの元祖的存在、通称「親分」



2016年の末に、世界で初めて「バーチャルYouTuber」を名乗って活動を始めたのがキズナアイ。
それまでも近い活動をしていた「お天気アンドロイドポン子」や「エイレーン」といった存在はあったが、頻繁に短い動画を上げてゆくYouTuberのスタイルと3Dキャラクターを結びつけた活動を、 初めて本格的に行ったのは彼女だった。

ほとんど注目されない下積みの時期も活発な活動を継続し、チャンネル登録者数300万人超えというところまでたどり着いた彼女は、間違いなくVTuberカルチャーを作り上げた大功労者であり、 敬意をこめて「親分」と呼ばれている。

ただ、活動開始が早いため、彼女のキャラクター設定自体は「AI」という以外に特筆すべき点のないシンプルなもの。
それゆえに万人向けではあるが、尖った面がないぶん個性が出しづらくギャップも作りにくく、現在はやや苦労している感もある。
キズナアイ分裂騒動(複数の演者が交代でキズナアイになる、というプランを実行しファンから反発を受けた)も、あまりにメジャーになってしまったがために設定を追加することも難しくなった現状を打破しようとした窮余の一策だったのではないかと思われる。

キズナアイのもうひとつの弱みは、生放送にたいして乗り切れなかったことで、これは初期の「Vtuber四天王」に共通する弱点であった。

バーチャル狐娘Youtuberおじさん「ねこます」 …… パーソンとキャラデザのギャップでいきなり限界越えした発想の天才




キズナアイの約1年遅れ、2017年11月に活動開始したVTuber。

VTuberの最大の武器である「パーソンとキャラクター設定のギャップ」をいきなり限界まで広げて見せた画期的な存在。
狐娘で「のじゃロリ(語尾にのじゃをつける幼女系キャラ)」であるという設定を持ちそれにふさわしい3Dグラフィックを持ちながら、声はなんの細工もないおじさんの声。 トークも思い出したように「のじゃ」をつけるだけで普通におじさんがしゃべっているという、登場時は完全に意味不明な存在であった。

おそらく中の人は遊び半分で始めたのでこんなやりたい放題なことになったのだと思われるが、結果としてはこのねこますの活動はVTuberの可能性を一気に広げた。
いわゆる「バ美肉(バーチャルで美しい肉体を得ること、つまり男性がボイスチェンジャーなどを使い女性キャラになりきること)」のはしりであり、 キャラクター設定は自由にやりたいようにやっていいんだ、ということをひろく認知させた。

現在はVTuberとしては引退しているが、技術者、ご意見番としてVTuberと関わりを持ち続けている。
なお、「キズナアイ」「ねこます」に「電脳少女シロ」と「ミライアカリ」を加えた4人は、2018年ごろまでよく「VTuber四天王」と呼ばれていた。

日雇礼子 …… ゆっくり解説動画の近縁としてのVTuber


ねこますと同じようなバ美肉系のコンセプトながらマニアックに特化したユニークなVTuberに「日雇礼子」がいる。
日本一のドヤ街、大阪西成地区に暮らす日雇い労働者の若い女性、という現実にはありえないプロフィールを持つ。
加齢臭ただよう小ネタをまじえつつ、ドヤ街の様子やドヤ街グルメなどを紹介している。こちらはより「ゆっくり解説動画」に近い存在といえる。

おめがシスターズ …… YouTuberっぽいのにバーチャルがわかってる、総合力の高いVTuber姉妹


2018年3月にデビューした双子姉妹のVTuber。
彼女たちの特徴は技術力の高さで、3Dの身体でリアルの焼き肉屋に行ったり、ゲーム空間の中で寝てみたり、リアルとバーチャルの間を自在に行き来している感がある。



実験的でありながら軽快なやりとりでエンタメ性が高い。 彼女たちのメディアペルソナや動画の作り方はかなりYouTuberよりであり、YouTuberをよく見てきた人たちが「彼女たちの動画は落ち着く、安定して面白い」と言っているのをよく見かける。

月ノ美兎(にじさんじ) …… パーソンの面白さがキャラクター設定を越えていったVの革命児


清楚なツンデレ委員長、という古典的なキャラ設定とグラフィックを持ちながら、パーソン(魂、中の人などと呼ばれることも)の面白さ、ユニークさが一瞬でそれをぶっちぎって大ブレイクした。
月ノ美兎という名前はあまり呼ばれず委員長と呼ぶ人が多い。



埋もれた面白いものを発掘する情報収集力や雑談の面白さもさることながら、彼女の特長は、そのメディアペルソナが非常にパーソン寄りであるように感じられること。
テレビ的・芸能的な大げさな抑揚や身振りが少なく、わりと素でしゃべっているように思えるのに非常に面白い、というのがユニークであった。

パーソンとはまるで違うキャラクターデザインを持っていることが、そのパーソン寄りのペルソナをより強調することになっている。
彼女の出現で、「VTuberはパーソンの面白さを引き出し、新しいタイプのメディアペルソナを作り出す装置として優秀なのだ」ということがわかってきた。

以降、彼女の属する「にじさんじ」は、キャラクター設定とパーソンのずれが面白いVTuber(ライバーとも呼ぶ)を多数生み出し、VTuber界の最大勢力となっていく。

また彼女の登場をきっかけに、VTuberは「動画投稿」から「生配信」へと流れが変わっていく。費用がかかる3Dグラフィックではなく、LIVE2Dを使ったシンプルな2Dアニメーションでも客が集められることがわかってきたからである。
「集客」という関門さえ越えられれば、動画が生配信に変わっていく流れは必然であった。コストが違う、ということももちろんあるが、VTuberは前述のように、そもそも日常的であることをめざすコンテンツだからである。
つまり、毎日当たり前のように新しい声、新しいトークが展開されることが理想なのだ。これは、テレビにおいても生放送が主軸になっていった歴史の繰り返しである。

桐生ココ(ホロライブ) …… パーソン自体が傑物すぎるホロライブ躍進の立役者


桐生ココとして登場した瞬間から、中の人の顔も素性もバレているという特殊な立ち位置になったVTuber。というのもKsonという日系アメリカ人の動画制作者として、すでに大人気だったからである。
英語なまりのつよいその喋り方は一瞬で特定できるもので、中の人の美人さを知っているリスナーからは、なぜVになる必要があったのかと不思議がられた。

彼女は英語ができるだけでなく、卓越した企画力とトーク力を持ったナチュラルな怪物であり、アサココという、同僚のライバー(ホロメン)をいじり倒す朝ニュースをやって大ブレイクした。
このアサココにより、自分だけでなく周囲の注目度も引き上げることに成功し、ホロライブはにじさんじを抜く勢いで躍進していくことになる。


しかし功労者の彼女は、たまたまとしかいいようのない事故で外国リスナーの怒りを買い卒業に追い込まれた。(コンテンツはいまでも視聴可能。) そののちもKsonとして顔出ししつつ普通に活動し、2022年7月には新たなV事務所に所属することを発表。
どこで誰になろうが注目を浴び愛され続けることだろう。ことパーソンの魅力ということでは他の追随をゆるさない傑物である。

緑仙(にじさんじ) …… パーソンとキャラクター設定の二重性にこだわるユニークな企画屋


VTuberが持つ設定とパーソンの二重性をとことん遊びつくそうとする、もっともVTuberらしい企画立案者のひとり。
本人もいまだに「男か女か不明」という設定を守っており、同僚から「解釈の余地を残してくれてありがとう」と謎の称賛を受けている。

緑仙の企画は、登場するライバー(VTuber)の設定をどんどん拡張していき遊び倒そうとするものが多い。
その究極といえるのが、「ライバーの誰が戦闘能力が高いかを同僚のライバーたちが妄想して勝ち抜き戦をやる」という不思議な企画。
それぞれのキャラ設定やメディアペルソナを分析し拡大解釈しつつ(イメージだけで)勝ち負けを語り合う長時間配信が50万回以上再生されている。



面白いのは、こういったキャラ設定の拡張のもとになっているのは、ライバー本人というよりむしろ視聴者サイドであること。
たとえば、妄想トーナメントで優勝した「鈴原るる」という美大生(という設定の)ライバーは、本人はただ粘ってゲームをしているだけなのに、 そのメンタルの強さに感嘆する視聴者たちから「不屈の怪物」というイメージを持たれている。
リスナーサイドがライバーのパーソンを読み取りそこからキャラクター設定を勝手に拡張していく、ということが起きている。

キャラクター設定 → キャラクター設定とパーソンのギャップ → 視聴者によるキャラクター設定の拡張・変形 → ライバー本人へのフィードバック → ライバーと視聴者が共同で作ったメディアペルソナの定着

このようにして、VTuber本人と視聴者がイメージのずれにそれぞれ反応してフィードバックしあうことによって、そのVTuberのメディアペルソナが自然生成されていく。
これはボードリヤールが言う「シミュラークル」の仕組みに非常に近いものである。
イメージが流布されることによってそのイメージは「本物」に近づいていく。

妄想トーナメント後、Twitterの#にじさんじ妄想トーナメント戦 のタグはおおいに盛り上がり、莫大な数のファンアートが投稿された。
このことによって、各ライバーのメディアペルソナはまた変化していく。

[怪物イメージを確立してしまった鈴原るるのファンアート]


このように、自由度と可変性の高いキャラクター設定という要素を持っているため、VTuberはVTuberならではの遊びを提供できる可能性を持っている。
緑仙そのことをよくわかっている企画者のひとりといえる。

ただしこういったコンテンツを楽しむには各ライバーの文脈や背景にあるカルチャーを知っていなくてはならず、Vが閉じたコンテンツになる危険性も同時に体現している。

黛灰 …… VTuberの「物語」を演じきった劇場型ライバーの最後のひとり


VTuberが独自の「キャラ設定」を持つ以上、そこに物語が生まれるであろうこと、むしろ物語に組み込まれないキャラクターは魅力を全て発揮できないことは、これまでの講義のなかでも述べてきた。
が、Vの歴史において、キャラクターの「物語」を十分に展開できた例はほとんどない。

それは、Vを生んだ時代のニーズが「終わらない日常」であることに起因する。つまり、必ず終わるであろう物語的展開とは相性が悪すぎるのである。
これは「物語」が持っている一回性と反復性の矛盾、という、これまで述べてきた二面性ともぴったり重なる。
Vが設定として強力な物語への導線を持ちながらそれを使えない、というのは本質的な二律背反の問題なのである。

それでも、多大な困難を乗り越え、自分のキャラクターの物語を展開しようとしたVTuberは何人かいる。その代表が、にじさんじの「おなえ組」である。

家出少女をモデルにした学習型AI「出雲霞」、その友人で中二病にかかっている少年「鈴木勝」、やはり友人で財閥のおぼっちゃん「卯月コウ」。
同じ歳の中学生3人が、出雲霞の物語を中心に、配信の中でシリアスなストーリーを展開させていく。
緑仙の企画がアドリブでやっていることを、綿密なシナリオをもとに、時間をかけて配信に溶け込ませる形でやろうという試みである。

にじさんじSEEDs「OD組」が紡ぐ“劇場型青春”

配信という形でVTuberが自らの設定に関わる物語を語ることを「劇場版配信」と呼ぶことが多い。
おなえどし(OD)組の活動は、劇場版配信のなかでももっとも大掛かりなもののひとつで、デビュー以来コツコツと物語を積み重ね、 霞がAIとなりいくつもの人格を持つにいたった真相を解き明かそうとしていた。

見ていてもおそろしく手間がかかる試みであり、途中参加が難しいため彼女の登録者は増えないままであったが、出雲霞は自らの物語を最後まで演じきり、そののち「完成した物語に余計なものを付け加えたくない」と語って卒業していった。

出雲霞の影響を強く受けてにじさんじデビューした黛灰も、同じように自キャラクターの物語を演じきろうとしたライバーである。


出雲霞も黛灰も、物語の結末をリスナーの投票行動で決める、という試みをすることで、ネット上でリアルに生きているキャラクターを演出していた。
黛灰も自らの物語を語りきったあと、7月で卒業予定である。
本質的な困難を抱える「VTuberの物語的展開」は、黛を最後にいまのところ途絶えることになる。が、前述の「妄想トーナメント」のように、多くのリスナーやライバーが共同で物語を妄想し作り上げる展開が美味く組み合わされば、 新しい道が開けるかもしれない。そのとき、少しずつ進化しつつある「物語生成AI」が強力なツールとして役立つ可能性もあるかもしれない。今後に期待したい。

葛葉 …… ゲーム実況者としてのVTuberを代表する存在

VTuberは、適度に日常をフィクショナル化し、いわばほんわかさせながら日常的な存在になることを目指していると何度も述べてきた。
が、日常といいながら、そこには人を楽しませるコンテンツがなければならない。よほどの天才でもないかぎり、ノーテーマの雑談で毎日のように人を楽しませることは困難である。
「エルフのえる」のような雑談の天才でさえ壁につきあたった。

そこで浮上してくるコンテンツがゲーム実況である。これは、ニコニコ生放送の頃からすでに困ったときのど定番としてひろく使われていた。
日常に溶け込もうとするVと、時間をたっぷり使って毎日でもやれるゲーム実況は非常に相性がよい。相性がよすぎて、いまやほとんどのVがゲームをやるようになっている。

にじさんじの葛葉は、その中でも最大の登録者数を誇る存在であり、軽妙なトークと適度に力の抜けたプレイぶりで、見てて負担にならず飽きにくい。



葛葉をはじめとしたゲーム系ライバーたちは、ストリーマーと呼ばれるゲーム実況者やプロゲーマーたちとも仲がよく、Vであるかないかに関係なくまざってゲームをやるようになってきている。
それにたいして、たとえば古参の超大物ゲーム実況者である加藤純一が「絵のお面被ってるだけじゃねーか、偉いのかよそれが」というような批判をするのも理由があることだろう。
ゲーム、というフィールドに立つと、顔を出そうが出すまいが、キャラ設定があろうがなかろうが、関係なくなってしまう。結局、同じ土俵に立ってしまうことになる。

花譜 …… バーチャルだから世に出た十代のシンガー


2018年の後半にひっそりとデビューし、その歌声のインパクトで急速に注目を集めたバーチャルシンガー。
彼女のリアルパーソンとしてのプロフィールはそれなりに公開されており、地方に住む16歳の高校生(デビュー時は中学生)であることが明かされている。
そういう意味ではキャラクター設定としての膨らみはないのだが、グラフィックデザインが素晴らしく、デザインそのものが強いストーリー性を含んでいる。

彼女の歌声も強いストーリー性を持ったもので、2000年代の終わりから発展してきた日本のシリアスなボーカロイド音楽の歌い手として、圧倒的な適合感がある。
ネットの音楽カルチャーの将来を担う可能性のある才能であり、「彼女を世に出しただけでVTuberという文化は意味があった」と語る人もいるほど。

もうひとり、花譜とは対照的な存在ながら、一時期圧倒的にVらしい楽曲を発表していたアーティストがいる。ミソシタである。



社会のなかで浮き上がることができない、「地下二階の同志たち」と連帯を歌うオリジナル楽曲は、現実の裏側のネット、というインターネット初期のイメージを強力に言語化したものであった。
成功よりも面白を、光よりもビデオ喫茶の闇を、と語るポエムには、このVという形でしか現れえないものが詰まっていたといえる。
が、おそらく超弩級の変人である中の人は、あっというまに飽きて別の活動に移っていってしまった。ごくわずかの期間だけの花火であった。

VTuberの現状 ~パーソンと関係性の時代~


にじさんじとホロライブの躍進によって、VTuberは完全に生配信主体となる流れになっている。
「Vtuberは、キャラクターにフィクション性を加えることで、アニメライクな日常を演出しようとする存在である」という輪郭はかなり定まってきており 、その中でもっとも容易でウケるコンテンツとしてゲーム実況が主軸になってきている、というのは自然な流れである。

動画投稿を主活動とする電脳少女シロやおめがシスターズなども頑張っているが、短く見やすくいつでも見られる、という動画のメディア的メリットより、 生配信のかもしだす日常的なムードを重視して楽しむ人が増えているのが現状といえる。

しかしゲーム実況というものがもつ本質的な凡庸さ、つまりなにもVじゃなくてもいいじゃないか、という面をフォローするために、もうひとつVが武器にしつつあるのが、「関係性」。
つまり、VTuber同士が仲良くなりキャッキャウフフする様子を見る、という楽しみ方である。2017年ごろには考えられなかった「カップル厨」、つまり男女カップルを見るのが好きという視聴者も増えている。
これは、日常としてのVという思想にもっとも見合うコンテンツであるといえる。なぜなら私たちの日常でも、人との交友は大きな楽しみだからである。
Vの活動のなかでコラボの比率がどんどん上がっているのは、自然な流れであるといえるだろう。

そうなってくると「結局やってることは生主と変わらないじゃないか」という批判は当然出てくる。
結局のところ面白いのはパーソンとパーソン寄りで作られるメディアペルソナであり、その見せ方が少し違うだけではないか、と。

しかし、メディアペルソナという視点を持って歴史を見ていくと、「見せ方が少し違う」というところが決定的な違いなのだという見方もできる。
顔出ししたそこそこかわいい男女がいちゃいちゃしているのと、キャラクター設定を持ちアニメ絵を持つVTuber2人がいちゃいちゃしているのとはやはり違う。 なぜならVTuberたちはキャラクターとして設定を持ち物語を持っている、つまり設定上、半分フィクション側だからである。
現実のカップルのいちゃいちゃは見ていられるものではないが、物語の中の男女なら楽しめるのである。バーチャルという薄い一枚の皮が重要であり、それがあるからリアルなパーソンに近いメディアペルソナが作れ、たわいもないイチャイチャがエンタメになる。

キャラクター性を私たちのリアルな日常から「少しだけ浮かせる(フィクショナルにする)」ことで日常漫画・アニメ的な要素を入れ、表現の自由度を増やしていく。
そうすることで、私たちの日常をフィクション化しつつ日常に寄り添うエンターテインメントが生まれる。VTuberという不思議なジャンルが生まれた歴史的意味と可能性はそういったところにある。





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